「ヌサンタラのアラブ人(1)」(2022年03月18日)

ブタウィ人類学者ヤスミン・ザキ・シャハブ氏の東ジャカルタ市デウィサルティカの自宅
を取材に訪れたコンパス紙記者に、女史はサモサをふるまった。ひき肉入りサモサは女史
の好物だ。「ハドラミはたいていそうだけど、特にわたしのようなハドラミとブタウィの
プラナカンには、アラブの味覚よりもずっとインドの味のほうが合うんですよ。」


イエーメンを主体にするアラブ半島南部のハドラマウト人はハドラミと呼ばれる。19世
紀に入ってからインドネシアに続々と移住して来たハドラミは元々、故国を去ってからイ
ンドのグジャラートに向かった。かれらはグジャラートからヌサンタラに、通商とイスラ
ム布教のためにやってきた。

1878〜1883年にオランダ東インド植民地政庁でイスラム法とアラブ語の顧問を務
めたファン・デン・ベルフ教授LWC van den Bergは、1884年から1886年までアラ
ブ系住民の調査をヌサンタラとハドラマウトで行った。その調査の結論によれば、ヌサン
タラに住んでいるアラブ人のほとんどすべてはハドラミであり、ごく稀にマスカットやエ
ジプトのヒジャズ出身者が混じっていたにすぎないそうだ。

ハドラミの移住はまずインドのマラバール海岸に向かい、インドに一旦とどまった後でヌ
サンタラにやってきた。最初はアチェを目指し、そこからパレンバンやポンティアナッに
流れた。1819年にシンガポールが建設されるとシンガポールがアチェの地位を奪って
発展するようになり、海上交通の流れが変わったために移住者はアチェを通らずにシンガ
ポールにやってきた。そしてシンガポールからはやはり海上交通の便が移住者をジャワ島
に向かわせることになった。こうしてハドラミの移住は最終的にジャワ島が主体をなした。
ハドラミが東部インドネシア地方に入るようになるのは、1870年代以降だったそうだ。


1884年にファン・デン・ベルフ教授がバタヴィアで行った調査では、面談・観察・ア
ラブ地域とやり取りされた手紙の分析などの方法が用いられた。1885年はアラブ人コ
ミュニティがあるヌサンタラの諸都市への訪問調査に費やされた。インドのボンベイで印
刷された金曜日の礼拝時の説教集がトゥガルとスラバヤで見つかっている。そこには、異
教徒をよく討伐するイスタンブルのスルタンが治世を行うべき正当な首長(カリフ)であ
るといった文も書かれていた。

オランダ人為政者には少々センシティブな内容の説教集に関して教授は、危険はまったく
ないというコメントを付けた。プリブミの説教者も礼拝者もこのアラブ語の説教がモスク
で読み上げられたところで、意味を理解することのできる者はまずいない、というのが教
授の説明だった。

ファン・デン・ベルフ教授は後の植民地政庁顧問になったスヌーク・フルフロニェ教授よ
りもアラブ人社会に受けが良かった。ファン・デン・ベルフの方がスヌーク・フルフロニ
ェよりもアラブフォビアでなく、客観的でポジティブであり、アラブ人を敵視してプリブ
ミ社会から分離させようとしなかった点をアラブ人は高く評価している。

フルフロニェが主張したカンプンアラブ方針をファン・デン・ベルフは反対したそうだ。
その当時オランダ人は一般的にアラブ人を潜在的脅威と位置付けていたため、プリブミと
できるかぎり交わらせないようにして監視を強めることが必須であるという意見が強かっ
た。ところがファン・デン・ベルフはアラブ人について、かれらは熱心な信仰者ではある
が、決してファナティックでなく、また他人にイスラム教を強制しない、と語っている。


ハドラミ社会は四つの階層から成っている。最上層はサイッ、そしてスクスク、ムヌガ、
奴隷という階層で社会が構成されており、預言者ムハンマッの孫で西暦680年に起こっ
たカルバラの戦いで戦死したフサインの子孫がサイッ層だとされている。その結果東南ア
ジアのアラブ人社会では、預言者ムハンマッの子孫と名乗る人間にまったく事欠かないあ
りさまだ。[ 続く ]