「ヌサンタラのアラブ人(2)」(2022年03月22日)

このひとびとはどこに住んでも宗教貴族層を形成し、今でもたいていハビブの称号を名前
の前に付ける。住み着いた地で大ウラマになり、イスラム世界の中で各地のコミュニティ
とネットワークを作る。グジャラートに移住したハドラミの中でこのサイッ層は地元のム
スリムからたいへんな尊敬を受けた。

因みにイスラム守護戦線FPIの頭領ハビブ・リジッ・シハブは預言者ムハンマッの第3
8代目の子孫だそうで、FPIがどれだけインドネシア官憲に叩かれようが、また頭領が
犯罪者扱いされようが、イ_ア人硬派ムスリムが続々とFPIの旗の下に参集して指揮者
の命令一下、イスラム教義に反する行為を力を持って抑圧するというパターンは微動だに
しないように見える。これも「偉い人物の子孫は偉く、尊い人物の子孫は尊い」という信
仰のなせるわざなのだろう。ときおり「信仰」というものが危険視されるのは、信仰がそ
のような形で発現することに原因のひとつがありそうだ。


18世紀終わりごろから、かれらは移住先のグジャラートからヌサンタラにやってくるよ
うになり、まずアチェにかれらのコミュニティが作られた。次いでパレンバン、更にポン
ティアナッへと東方に広がった。ところが1820年を過ぎると、広がりがジャワへと変
化したのである。ヌサンタラでもグジャラートと同様、サイッ階層は地元ムスリムたちか
らたいへんな尊敬を受けた。

1885年の人口調査によれば、ハドラミ人口は大どころでバタヴィアが1,448人、
スラバヤ1,145人、グルシッGresik867人、チルボン834人、プカロガン757
人、スマラン600人と記録された。他にもトゥガルやマドゥラにハドラミコミュニティ
があった。バタヴィアでサイッ層はマイノリティだったが、反対にプカロガンではサイッ
層がマジョリティを占めた。

しかしファン・デン・ベルフは、アラブ人人口のもっとも多い土地はアチェであると報告
している。その当時アチェは独立スルタン国であってオランダ植民地政庁の支配下に落ち
ていなかったから、カンプンアラブ方針など行われておらず、本人の好きな場所に自由に
住んでいた。だから人口数が明瞭に記されていないのかもしれない。

その後1900年にバタヴィアのアラブ人人口は2,245人になり、更に1930年に
は5,231人に急増して東インド在住アラブ人総人口の7%を超えたそうだ。2003
年にインドネシア政府宗教大臣はセミナーの中で、インドネシアのアラブ系住民は5百万
人を超えており、そのほとんどはハドラミであると述べている。

1930年の東インド在住アラブ人総人口にはアチェのアラブ人も含まれていると思うの
だが、それで総数が7万人台だったのであれば、百年も経たない間に5百万人台に達する
というのはその間にいったい何があったのだろうか?


サイッ層は常に独身で移住した。たとえ夫が保護してくれるといっても、女が生地を離れ
て見知らぬ土地へ危険に満ちた旅をすることが非常識だったのは、人類の歴史の中に長期
間に渡って醸成された気分だったようだ。特にイスラム文化の保守性はその気分を現代に
まで維持している。

それとは別にハドラマウトでは、宗教で公認されている一夫多妻の慣習が昔から実行され
ていなかった。ハドラミの間では、妻を持つ夫が二人目の妻を持とうとすると、最初の妻
は自主的に実家へ帰るのが風習になっていた。善意の夫なら、実家へ帰ってしまった妻を
離婚せざるを得ない。そうしなければ最初の妻になった女の生涯を拘束し、その女の両親
に経済負担を背負わせることを強いる結末になるからだ。それは善き社会人のするべきこ
とではない。[ 続く ]