「ヌサンタラのアラブ人(3)」(2022年03月23日)

もちろん女の側からの離婚訴訟も起こり得るし、現実に別居生活が一年を超えれば、夫が
妻に経済的性的な心身の需要を満たす義務を怠ったことが立証されて、妻側の勝訴も間違
いなく得られただろう。が、人間というのは訴訟よりも示談を好むものらしい。

ともあれ、ハドラミ移住者は19世紀末になっても男だけというのが普通だった。移住者
の中のサイッ層は移住先社会の指導者や貴顕層の娘を妻にして家庭を持った。冒頭のヤス
ミン女史はそんな子孫のひとりであるにちがいない。


1844年、バタヴィアのハドラミコミュニティの住民人口が増加したため、植民地政庁
はカピタンアラブ職を定めて共同体集団の自治体制を作らせた。文化を同じくするひとび
とが社会運営を自治的に行うのである。そのほうが、治安と秩序の統制・共同体の経済発
展・戦闘部隊の徴募にたいへん効果的だった。

ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバタヴィアを興したときから、バタヴィアに集まって
来て住むアジア人は人種種族ごとに分裂居住させ、それぞれにリーダーを定め、オランダ
人がそのリーダーを監督して集団の掌握をはかった。但し、それぞれのリーダーが住民管
理行政の一職位になったかどうかはまた別問題だろう。行政システム内に加えられた場合
はその職名がカピタンと呼ばれたようだが、すべての人種種族リーダーが一律にそう扱わ
れたわけでもないようだ。

人種種族ごとの居住地域はカンプンkampungと呼ばれた。この場合のカンプンは、地方部
で自然発生的に人間が寄り集まって住んだ集落・部落とは意味が違っている。城壁に囲ま
れた初期のバタヴィア城市の外側を取り囲むようにして、東側にはKampung Banda、南に
Kampung Cina、西にKampung Kojaができた。

ところがそれらの場所を指して現在慣用的に使われているのはKampung Bandan, Pecinan, 
Pekojanという形であり、プチナンとプコジャンはKampung Cina, Kampung Kojaのジャワ
語における同義語だから不自然なことではない。


ジャワ語には、pe-anを付けて場所を表す場合に、二音節語で語尾が母音の場合にpe-anが
pe-nになるという法則がある。だからPecinaan, Pekojaanにならなかった。三音節以上や
語尾が子音の場合にはpe-が脱落して-anだけが付けられる。たとえばBugisはBugisanにな
り、InggrisはInggrisanになるようなものだ。

だったら、BandaがBandanになったのはいったいどうしたことなのだろうか?ジャワ語の
文法法則を使うなら、Pebandanになってしかるべきではあるまいか?この地名にかぎって
Kampung BandaとPebandaanの折衷になっているのは奇妙としか思えない。

いやそれよりも、スンダ文化の地のど真ん中で、どうしてジャワ語文法が使われたのかと
いうことに疑問が生じる。どうやらスンダ語もこのジャワ語文法の使い方は同じだったら
しく、スンダ人はPacinan, Pakojanと呼んでいた。pa-がpe-に置き換わったのは、ひょっ
としたらジャワ語に合わせたのでなくて、インドネシア語標準接頭辞に置き換えられたた
めかもしれない。

その三つの内のプコジャンとカンプンバンダンは地名として定着した。ちなみにスマラン
にもプコジャンという地名がある。しかしプチナンはヌサンタラの全域に存在しているも
のの、いずこも一般名詞として使われていて、地名になっている場所はないように思われ
る。ジャカルタ最大のプチナンも地名はグロドッだ。


プチナンについては、バタヴィア城市の初期の時代に華人は城市内に居住を許されていた。
クーンが華人をバタヴィア建設のパートナーに選んだことが、そのような伝統を作り出し
たように思われる。華人が城市の外に追い出されて城市外南部にジャカルタ最大のプチナ
ンが誕生したきっかけは、1740年の華人街騒乱Chinezenmoordだった。[ 続く ]