「ヌサンタラのアラブ人(4)」(2022年03月24日)

華人街騒乱のクライマックスはバタヴィア城市内で起こった華人住民大虐殺事件である。
そのとき、カリブサールが華人の死骸で埋まった。城市の外へ逃れた華人が城市の外で既
に始まっていた騒動に合流して反オランダ戦争を開始し、戦火はバタヴィアの外へ、さら
にはジャワ島一円へと拡大して行った。

この華人街騒乱事件はインドネシア語でGeger Pecinanと名付けられた。事件勃発時のプ
チナンは城市外グロドッ地区とバタヴィア城市の中のカリブサール西側南部のふたつにな
っていた。どちらの規模が大きかったのかはよく分からないが、種々の論説やイラストか
ら得られる印象からは、Pecinanの語が城市内を指しているようにわたしには感じられる。
だから、事件後にプチナンとして確立されたグロドッ地区をゲゲルプチナンの中心舞台だ
ったと考えると間違いを冒すことになるかもしれない。

この事件が終わったあと、VOCは華人のバタヴィア城市内での居住を許さなかった。華
人は城壁の外に居住地を設けて住んでいたバンダ人奴隷やコジャ人に倣って、城壁外の南
側居住地を唯一のプチナンにして充実発展させていった。

オランダ人は華人街騒乱から多くを学んだようで、人種種族別分離居住方針はますます厳
格化されていった。支配者に反抗する人種種族があったとき、それぞれを個別の目に見え
ない囲いに入れておけば、人種種族を超えた共同謀議は行いにくくなり、反乱の鎮圧行動
が無関係な人種種族を巻き込むことも減り、反対に無関係な人種種族を支配者側に付けて
反乱者を包囲することも容易になる。植民地政庁はこの方針の完成度を高めて、居住地制
度wijken stelselと通行証制度passen stelselという仕組みの中に結実させた。


一方のプコジャンはムスリムコミュニティだった。コジャという語がインド人を指してい
るという解説もインドネシア語記事の中に見られるが、インドネシア語ウィキはパキスタ
ン人であると説明している。それによれば、パキスタン系インドネシア人プラナカンが往
々にしてKhoja, Koja, Kujo, Tambolと呼ばれているそうだ。インドネシアに渡来したコ
ジャ人の出身地はパキスタンのクチやカティアワル、インドのグジャラートなどで、特に
グジャラートからの渡来者が多かったためにインド人と解説したのかもしれないものの、
要するにかれらはヒンドゥスタン系のイスラム教徒だった。

17世紀にVOCは、バタヴィアにやってきたイスラム教徒をすべてプコジャンに居住さ
せた。この場合は人種種族という区分でなくて文化宗教というまとめ方になっている。但
しいつの時代でも、財産の多寡が人間の社会ステータスに影響を及ぼすのがヒューマニズ
ム(人類原理と読む)だったらしく、オランカヤはタナアバンやクルクッ、またパサルバ
ルなどのヨーロッパ人やヨーロッパ系プラナカン居住地区の中に混じって住むことができ
た。オランカヤと言っても並みの金持ちでなく、17世紀末のかれらの生活はオランダ人
高官のようなものだったそうだ。つまり、豪邸に住み、奴隷を何人も抱える暮らしをして
いたのである。

19世紀初頭のバタヴィア居住外国人イスラム教徒人口は4百人くらいで、その後の数十
年間、たいした変動は見られなかった。


グジャラートからバタヴィアにやってきたハドラミはたいていプコジャンに住んだ。かれ
らは物品の売買を仕事にした。扱い品目はグジャラートから輸入される綿布・衣服・貴石
から、他にも香油香水・皮革製品・家具・食品などの多岐にわたった。

ムスリムはイスラム布教がアッラーへの奉仕であり、信者を作れば当人の罪が軽減される
という教えに動かされて、その生涯を布教で彩ることで善きイスラム者の一生を遂行しよ
うと考える者が多く、人間を相手にすればその機会が潤沢にあることから、商業を選択す
る根はひょっとしたらそこにあったのかもしれない。モノ作りや土いじりをしていては、
イスラム入信を働きかける相手にどれほど出会えただろうか?[ 続く ]