「ヌサンタラのアラブ人(終)」(2022年03月25日)

面白いことに、ハドラミが主体のインドネシア居住アラブ人の中に、謹厳実直な金貸し事
業を行って財を成した人間も少なくない。かれらはたいてい、銀行のように信用保証をう
るさく言わず、金に困っている人間に手を差し伸べてくれる、金にきれいな民間金貸しと
いう評判を取っていた。

植民地時代から続けられてきた高利貸しはたいてい華人・アラブ人・インド人そして少数
のプリブミが行っていたというイメージがインドネシア社会に染みついている。かれらの
妻も地域社会で巧みに立ち回って社会的著名人になり、婦人たちの集いの中で個人の金銭
需要を煽って客を作っていた。金利がハラムにされているイスラム教義に反するアラブ人
高利貸しの話は、観念論者にとっては嘘としか思えないかもしれない。だが、人間社会の
現実は観念で動いているのではないということがミクロ世界を覗けば覗くほど見えてくる
だろう。

しかも借金返済不履行が起こるのがこの世界の常なのである。そんなプロセスを通して土
地を手に入れるハドラミが少なくなかった。土地所有者になったかれらは普通、地主家主
になって土地を貸すか、あるいは潤沢な利益を乗せて土地を再販した。華人は手に入れた
土地を自ら生産財として活用し、農業をしたり工場を建てて生産活動を行ったのに比べて、
アラブ人はそのようなことをする者がめったにいなかった。

アラブ人が持っているバタヴィアの土地評価額は25億フルデンに上ったと1885年の
データは述べている。面積が分からないのが残念だ。


不動産王として盛名を馳せたひとびとの中にサイッ・アリ・ビン・シャハブとバサラマが
いた。サイッ・アリはメンテン地区、バサラマは東クウィタン地区の大地主になった。し
かし、ブタウィのアラブ人で立志伝中の人物は19世紀末に登場したサイッ・アブドゥラ
・ビン・アルウィ・アラタスだろう。かれはハドラミ移住者の三代目に当たる。

広大な土地を所有し、鋳物工場と機械製造所を運営し、輸入馬を扱ったかれは1890年
に中央ジャカルタ市ジャティプタンブラン通りのネオクラシックスタイルの邸宅を購入し
てプコジャンから移り住んだ。その邸宅は現在、繊維博物館として使われている。

HOSチョクロアミノト、KHアッマッ・ダッラン、Hアグッ・サリムといったインドネ
シア民族運動の先駆者たちと親交深かったサイッ・アブドゥラは、シャリカッイスラム活
動資金のために6万フルデンを、またムハマディヤに対しても、オランダ植民地政庁の学
校教育と肩を並べうるレベルの教育をヌサンタラに打ち立てるための資金を寄贈し、アル
イルシャッなどのイスラム諸団体にも多大の支援を与えた。かれはアラブ語雑誌「ボロブ
ドゥル」の発行責任者にもなっている。スハルト政権で外務大臣を務めたアリ・アラタス
はサイッ・アブドゥラの孫だ。


オランダ植民地政庁が分離居住制度を1919年に廃止すると、既に過密状態になってい
たプコジャンからハドラミが続々とクルクッ、プタンブラン、タナアバンなどに引っ越し、
更にサワブサール、メステルコルネリス、タナティンギなどへ広がった。

今日現在、ジャカルタのカンプンアラブは西ジャカルタ市がクルクッ、サワブサール、中
央ジャカルタ市はジャティプタンブラン、タナアバン、クウィタン、東ジャカルタ市はジ
ャティヌガラ、チャワン、チョンデッとされている。それらの地区に住んでいるのはハド
ラミとブタウィのプラナカンであり、アラブ文化の影響を受けたブタウィ文化の産物がそ
れらの場所で発展した。中でも特筆されるのはルバナ音楽・オルケスガンブス・タリザピ
ンだろう。

ルバナ音楽はrebana hadrah, rebana burdah, rebana maukhidの三種類が興った。ルバナ
ハドラは二つの楽団が相互にディワン・ハドラの神への賛頌を唄い合って競う形式のもの。
ルバナブルダは、アルブシリ作の預言者ムハンマッを称える頌歌を唄うもので、地主で畜
産家のハドラミ、サイッ・アブドゥラ・バッマルが考案した。

オルケスガンブスがバタヴィアで人気を高めはじめたのは1940年代だった。最初はハ
ドラミ社会の中でだけ演奏が行われていたガンブス音楽は、そのうちに婚礼や割礼などの
ブタウィ人の祝宴に不可欠なイベントになった。更に全国のムスリム社会にも影響が及ん
で、スラバヤ出身のシェッ・アルバルが一世を風靡したのである。

また、アラブ料理とインド料理の折衷であるナシクブリも、ハドラミが住んでいるあらゆ
る土地でプリブミムスリム層の人気を集めた料理になった。[ 完 ]