「ジャワ島の料理(93)」(2022年03月25日)

エディさんが直面している事態はきっと、昔のブタウィで起こったのと同じものだったの
ではないだろうか。1970〜80年代に大規模な首都開発が行われて、水のあった場所
が陸地にされ、そこにビルや住宅が建てられた。チセエンも陸水系がどんどんと埋め立て
られて住宅地に転換される変化の真っただ中にある。


エディさんはその日獲った4匹をグヌンシンドゥル通りにあるワルンに売った。その通り
にある5軒のワルンは捕獲者が持って来た様々な種類の淡水魚を買い上げ、店の軒先に吊
るし、買いに来た客に再販している。その店の軒先に吊るされた、水を張ったプラ袋には、
ガブス、ブルッ、タウェスなどの魚が生きたまま入れられている。

それを買いに来る客の中には、首都圏辺縁部でブタウィ料理ワルンを営んでいるひとが混
じっている。このワルンはガブス魚を捕獲者からキロ3万ルピアで買い取り、客にキロ4
万ルピアで販売している。ブルッはキロ5万ルピアだそうだ。

昔は同業ワルンが道路沿いにたくさん並んでいたが、捕獲者が持って来る量が激減したた
めに大勢が店をたたんだという話だ。


ガブスプチュンやプチャッタウェスの料理には、往時のブタウィ人のライフスタイルが反
映されていた。ブタウィ人の生活がいかに川・沼沢・水田などの陸水に結びついていたか
をその一事が示している。かれらの食事の素材がたくさん、そこから得られていた。

老世代のブタウィ人が昔、いかに頻繁にそれらの場所へ行って食材を獲っていたかに関す
る思い出話をするとき、mancing, nyerok, neger, ngurak, ngobor, ngerogoh, ngebubu, 
nyetrumなどという漁獲手段の用語が口をついて出て来る。

だからブタウィ人はいまだに魚釣りが大好きで、南タングランのチプタッに住む40代の
アグスさんも川や池のある暮らしから離れられない。暇ができると、近くの川や池に釣竿
を持って出かけ、川魚やタウナギを土産に持って帰る。すると奥さんがすぐにそれを料理
して、一緒に飯を食う。

そんなシナリオには奥さんも満足しているのだが、ご主人が朝から出かけて夕方まで帰っ
てこないと、頭にニョキリと角が出る。土産があろうがなかろうが、角が出るのは同じだ。
「釣りを始めたら、もう時間のことなんか気にしないひとですよ。商売さえほったらかし
にするんだから。」


ブタウィ人はガブス魚を、そのサイズに従って違う名称で呼んだ。手の指サイズはanak 
boncel、もう少し大きくなるとboncelan、15〜20センチくらいになったらkocolan、
それより大きくなってはじめてgabusになる。ガブス魚がいかにかれらの生活の中に深く
入り込んでいたかがそこに示されている。

南ジャカルタのプサングラハンではガブスをganjilanと呼び、チプタッでは特定サイズの
ガブスをjampilanと呼んだ。

ブタウィ人はガブス魚を特別の魚に位置付けた。ある家の娘を妻に望む男が結婚申込にそ
の家を訪れるとき、ガブス魚を二匹持って来ることがブタウィピンギルで不文律にされて
いたのだ。人間はもっと金のかかる贈り物に気を回すのが普通だから、ガブス魚のことを
忘れてしまう者もいる。ガブス魚を忘れたら、娘の父親は腹を立ててその正式申込を破談
にしてしまうのである。


ブタウィ人にとって自分たちの生活環境は、陸水系に満ち満ちていた。かつては豊富な水
田に囲まれ、そして少なくとも1980年代ごろまではかれらの暮らしに常に池沼や川が
あり、食材の多くをそこから得ていた。

米はブタウィ料理とされているnasi uduk, nasi ulam, dodol, tape uli, sagon, rangi, 
geplakなどを生み出した。ブタウィ史家リッワン・サイディ氏は、「ナシウドゥッはずっ
と昔からブタウィコタもブタウィピンギルも作っていた。ナシウドゥッの添え物は必ずス
ムルジェンコルだった。常に必ず肉が添えられるというものではなかった。」と語ってい
る。[ 続く ]