「ジャワ島の料理(終)」(2022年03月28日)

淡水魚はプチャッ、プチュン、塩魚にして食べていた。ウィラード・ハンナ氏によれば、
スンダクラパ時代の陸水系沿いに住む住民たちは獲った淡水魚で大量に塩魚を作り、港に
やってくる船乗りや商人たち外来者に売っていたそうだ。かつてikan asin gabusがブタ
ウィで人気のある食べ物だったのは、そんな伝統を受け継いでいたからかもしれない。


豊かな陸水系の中にあったブタウィ人の暮らしに、淡水魚でない生き物も深く関わってい
た。それはワニだ。ブタウィ人の婚礼の式典にワニをかたどったroti buayaが飾られるこ
とが関わり合いの深さを物語っている。ワニは婚礼の場に、貞節と自然の力を象徴するも
のとして置かれるのである。

自然の力への畏敬は古代人が往々にして抱くものだった。ブタウィ人社会には、川に棲む
超自然の存在を慰撫するために、ngancakと呼ばれる供物を献じる風習が昔から行われて
いた。超自然の存在はbuaya buntung, buaya putih, buaya merahなどの姿で人間の前に
現れるのだ。

供物は川の蛇行部、畑、泉などに置かれた。紅白の粥・アヤムカンプンの卵・甘いのと甘
くない茶・甘いのと甘くないコーヒー・焼いた鶏肉・葉巻・お香などが供物の主要な内容
だった。加えて、状況に応じてもっと豪華な供物が必要と思われたときには、その場所に
水牛やヤギの頭が埋められた。

この風習は、イスラムは元より、ヒンドゥ=ブッダ信仰がジャワの地にもたらされる以前
から行われていたものと見られている。それがブタウィコタ社会から姿を消し、ブタウ
ィピンギルコミュニティからさえ、1970年代終わりごろから順繰りに消滅して行った。
いまだに行われているのはsedekah Bumiで、十字路・畑・泉などに食べ物を供えるものだ。
このスドゥカでは供物の一部を残し、儀式が終わるとみんなで食べ合う。


JJリサル氏は次のようにコメントしている。ブタウィの地を覆っていた陸水系に基盤を
置いて構築されたブタウィ風のライフスタイルはブタウィ人の進化過程の一段階を示すも
のだった。そのライフスタイルの根はたいへんに奥深い。

ブタウィ文明は南の山岳地帯から川によって運ばれて来た土砂の堆積地の上に築かれた。
歳月と共に堆積土は拡大し、チサダネ・アンケ・チリウン・ブカシ・チタルムのような大
河が河口に扇型の土地を作り出し、その土地の上を水たまりや小さい水流が縦横に埋めた。
豊富な水のおかげで植生も繁茂した。川・池・沼・森林などから離れて住むことがそんな
土地に暮らす人間にできるはずがない。


ジャカルタ都内のチリウン川流域の数カ所で考古学上の遺物が発見されているのは、その
当時の河口や海に近い場所で古代人が生活していたことを証明するものだ。チョンデッ・
パサルミング・カンプンクラマッなどで出土した遺物の中には新石器・青銅器・鉄器のそ
れぞれの時代のものがある。

西暦5世紀に興隆したタルマヌガラ王国は東をチタルム川、西をチサダネ川、南をチアル
トゥン川で切り取られた領土を持ち、領土の中をチリウン川とブカシ川が流れていた。

その後12世紀にパジャジャラン王国がチリウン川沿いにスンダクラパの港を作った。こ
の港は直接海に面しておらず、河口から少し内陸に入った場所に作られた。スンダクラパ
が1527年にファタヒラに征服される前、この港はヌサンタラの海上通商路の一拠点と
して重要な役割を果たしていた。ファタヒラはスンダクラパを滅ぼして、チリウン川西岸
にジャヤカルタの町を作った。

1619年にヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタを滅ぼしてバタヴィアを作
ってから、この町はヌサンタラを超えた世界の十字路に変身した。ブタウィ文化がありと
あらゆる文化のるつぼになったのは、その後の歴史が物語っている。


ブタウィ料理から淡水魚料理が失われたことが示しているのは、ジャカルタの地勢がいか
に激しい変化を体験したかということなのだ。たとえばチリリタンというのはチリウン川
の支流の名称だった。ところが今や川はその姿を消し、チリリタンという名前は土地の名
称としてかろうじて残されている。沼や池も姿を消して住宅地区に変貌した。ラワケチャ
ップ、ラワチュパン、ラワデノッなどという名の沼は埋め立てられたが名前すら残されず、
XXプルマイ、XXインダ、XXレジデンスといった名前に変わってしまったのである。
[ 完 ]