「カンプンアラブ(1)」(2022年03月28日)

華人街プチナンがヌサンタラのどの町にもあるように、アラブ人居住区であるカンプンア
ラブもたいていの都市にある。ややこしいのは、今カンプンアラブと呼ばれているものの
中で歴史の古い所は最初インド系ムスリムの居住区だったことだ。そのような古いカンプ
ンアラブはヒンドゥスタン系ムスリムを意味するKojaという名称が使われている。ジャカ
ルタにもスマランにもPekojanという地名を与えられた土地があり、そこもカンプンアラ
ブとして知られている。

ジャカルタのプコジャン地区に17世紀に建てられたモスクはコジャ人が建設したもので
あり、18世紀になってからアラブ系プラナカンが建てたモスクが出現した。その辺りの
時期にジャカルタのプコジャン地区住民の顔ぶれに変化が起こったように思われるのだが、
オランダ人による行政管理はインドもアラブもひっくるめたイスラム教徒モール人という
一括りの概念でかれらを捉えていたために、内容の変化を示す情報はなかなか見つからな
い。


ヌサンタラにやってきたムスリムは最初、やはり位置的に近いコジャ人だったようだ。か
れらは通商のためにやってきて、そのうちに定住する人間が増えはじめた。後になってア
ラブ半島南部のハドラマウトからハドラミがインドのイスラム系の地域を経由してヌサン
タラにやってくるようになり、かれらもばらばらと定住するようになる。人口比としては
ヒンドゥスタン系がハドラミよりも圧倒的に多かったのだろうが、だんだんとその差が縮
まり、人口比が逆転してヒンドゥスタン系がハドラミの中に呑み込まれてしまった。コジ
ャ文化の影が薄くなり、最終的にアラブ文化ばかりが目立つ社会に変貌したということな
のかもしれない。そんな変化が18世紀ごろから始まっていたのではあるまいか。

1730年代にバタヴィアのプコジャンで生まれたハドラミの血を引くシェッ・ジュナイ
ッは25歳のときにメッカに移り、メッカで修行を積んでからメッカの大モスクであるマ
スジッハラムのイマムを務めた。かれはメッカでシェッ・ジュナイッ・アルブタウィと呼
ばれ、アラブの地にブタウィの地名を知ろ示した最初の人物になった。

かれはメッカでイスラム世界の各地からやって来たたくさんの生徒を教育したおかげで、
ブタウィの地名もイスラム世界の各地に浸透したようだ。その生徒の中にはバンテンスル
タン国創設者マウラナ・ハサヌディンの子孫であるSyekh Nawawi al-Bantaniがいた。シ
ェッ・ナワウィはバンテンスルタン国がオランダによって滅ぼされた1813年に生まれ
ている。シェッ・ジュナイッは百歳を超える高齢に達してから、メッカで没した。


19世紀後半になって、ハドラミがシンガポールを経由してヌサンタラに続々と移住する
ようになると、正真正銘のアラブ人居住区がヌサンタラの各地にできた。スマトラのバン
ダアチェ、パレンバン、シグリ、メダン、ランプン、更にバンジャルマシン、マカッサル、
ゴロンタロ、アンボン、マタラム、アンペナン、スンバワ、ドンプ、ビマ、クパン、果て
はパプアにまでカンプンアラブが存在している。中でもジャワ島では、ジャカルタのプコ
ジャンやKrukut、ボゴールのEmpang、スマランのプコジャン、スラバヤのAmpel、ソロの
Pasar Kliwong、グルシッのGapura、モジョクルトのKauman、チルボンのカウマン、ヨグ
ヤカルタのカウマン、マランのJagalan、プロボリンゴのDiponegoro、ボンドウォソには
その名もずばりのKampung Arabなどがあり、他にもトゥガル、プカロガン、パスルアン、
バギル、ルマジャン、バスキ、バニュワギ、スムヌップなど、町という町にカンプンアラ
ブができている。[ 続く ]