「カンプンアラブ(2)」(2022年03月29日)

植民地政庁顧問だったファン・デン・ベルフ教授が1884年にバタヴィアで行った調査
によれば、プコジャンに住んでいるのはアラブ人とプリブミがメインで、ヒンドゥスタン
系と認識されている世帯はなく、また華人はきわめて少なかった。アラブ人はほとんどが
ハドラミだった。1870年にスエズ運河を通ってヨーロッパと極東を結ぶ蒸気船定期航
路運行が開始されたために、蒸気船が寄港するアラビア半島からシンガポール経由でヌサ
ンタラへやってくるハドラミが急増した。

そのころは植民地政庁が民族種族の分離居住制度を行っていて、プコジャンはムスリム居
住区に指定されており、バタヴィアへ移住して来たハドラミはまずプコジャンに住んだ。
移住者の増加によってプコジャンは住宅密集地区になり、スラムの趣を呈していたが、ア
ラブ人はそれをあまり苦にしていなかったとファン・デン・ベルフ教授は報告している。

そのころはクルクッやタナアバンに住んでいるアラブ人も多少はいた。1919年にプコ
ジャンをカンプンアラブにしていた政府方針が廃止されたことで、スラム状態のプコジャ
ンから脱出するアラブ人が増加した。しかし1950年代までプコジャンは名実ともにカ
ンプンアラブであり、ブタウィ歴史家アルウィ・シャハブ氏によれば住民の95%がアラ
ブ系の世帯だったそうだ。

1940年代にプコジャンに住んでいた華人は三世帯だけで、氷菓の作り売りや雑貨店を
営んでいた。華人の巡回バッミー売りがプコジャンに入って来ると地元の腕白坊主たちが
石を投げて追い出そうとするから、華人たちは怖がってあまりプコジャンに足を踏み入れ
なかったという話もある。

アラブ人のプコジャン脱出が進んでアラブ人が激減したのは1970年代であり、その空
隙を埋めるべく華人が隣のプチナンから移り住んで来た。今では完全にプチナンの中に呑
み込まれた様相になっている。2000年代初めごろのプコジャンには、60世帯ほどの
アラブ系住民しか住んでいない。

1950年代に始まったプコジャンからのアラブ人の移動は、ほぼ全員がジャカルタの中
の別地域への引っ越しだった。スラバヤやプカロガンなど地方部のカンプンアラブに移る
者はいなかったらしい。反対に、地方部に住んでいたアラブ人がジャカルタに移って来た
例には事欠かない。


現在の西ジャカルタ市タンボラ郡プコジャン町には歴史の古いモスクや礼拝所がたくさん
あり、そこが古くからのカンプンアラブであった事実を示している。プコジャン最古のモ
スクと言われているMasjid Ar-Roudhohは17世紀初期に建てられた。Masjid Al-Anshor
は1648年、Masjid An-Nawirは1760年、Langgar Tinggiは1829年、そしてMas-
jid Zawiahが1874年とたくさんの由緒あるモスクがこの一画に集まっている。

小モスクであるLanggar Tinggiはハドラミのアブバカルが建設した。1833年の開所と
も書かれている。後にカピタンアラブのシェイッ・サイッ・ナウムがそれを拡張した。

シェイッ・サイッ・ナウムは商船を持ち、またタナアバンに広い土地を持っており、その
土地の一部をイスラム墓地として開放した。そのイスラム墓地とは現在のタナアバンから
南に下ったマスマンシュル通り東側のクブンカチャン地区であり、アリ・サディキン都知
事が墓地を移転させたあと、かれの後継都知事がその場所にインドネシア初の層状集合住
宅を建設した。

総面積385平米のランガルティンギ小モスクのデザインはポルトガルと中華の折衷様式
が用いられている。この小モスクは礼拝のためだけでなく、昔からハドラミの一族が親睦
のために集まる場所としても使われていた。[ 続く ]