「カンプンアラブ(3)」(2022年03月30日)

この礼拝所の裏側は川になっていて、昔はチサダネ川から建築資材・布・スパイス・農産
物などを旧バタヴィア城市に運ぶ舟や筏がアンケ川を経由して乗り入れて来た。それらの
舟や筏が礼拝時間になるとランガル裏手の水辺にもやっていたそうだ。舟や筏を操るムス
リムたちはそのまま川の水をウドゥに使い、陸に上がってランガルに裏から入ったという
話が語られている。

ランガルティンギの裏を流れる川にはJembatang Kambingと呼ばれている橋がかかってい
る。屠殺場で屠られるヤギが必ずこの橋を通ったことから与えられた名前だ。プコジャン
の外からプコジャン居住地区の食肉需要を賄うために連れてこられた数十頭のヤギの群れ
がそこを通るのである。それが人の目に印象を残さないはずがない。250年前にこの橋
がかけられて以来、そこを通ったヤギの数は何頭に上っただろうか?ヤギたちの最期の目
的地になった屠殺場、インドネシア語でpejagalan、も橋から6百メートルほど北にある
道路にその名を残している。

屠殺場で解体されたヤギ肉をヤギ橋近辺で小売販売する店は最初二軒だけだったが、その
後四軒に増えた。かれらは何世代にもわたってその家業を続けている。プコジャンがカン
プンアラブだった時代は消費者がたくさん買いに来たのだろうが、住民が入れ替わってし
まった昨今、かれらの先祖が体験したような需要はもうなくなっているのではないだろう
か。かれらの顧客はサテ売りと家庭の主婦がほとんどになっているとの話だ。

ジュンバタンカンビンを通って対岸へ行くと、1760年に建てられた総面積1,983
平米というプコジャン最大のアナウィルモスクがある。そこは長い間プコジャンのイスラ
ム活動の根拠地になっており、プコジャンモスクの呼称で知られていた。

アナウィルモスクの建設者はアラブ系プラナカン女性のSyarifah Fatimahで、1897年
に没したかの女の墓は他のアラブ人貴顕たちに混じってモスクの右側にあるムスリム墓地
に設けられた。アナウィルモスクは何度も改修がなされているが、ドームと柱および尖塔
は最初に作られたときのままだとモスクの世話人は述べている。

このモスクは1920年代にハビブ・アブドゥラ・ビン・フセイン・アライドゥルスが拡
張した。この大金持ちも名前をガジャマダ通りの西にアライドゥルス通りとして残してい
る。かれはアチェ戦争のときに武器兵器をアチェ側に提供してバックアップした。

ザウィアモスクはもともと小さな礼拝所だったものを、ハビブ・アッマッ・ビン・ハムザ
・アラタスが大きいモスクに改装した。


1901年にジャミアトゥルケイルがプコジャンに発足し、イスラム教育のためのマドラ
サの運営、中東からのイスラム宗教師の招へい、インドネシア民族独立運動先駆者たちへ
の支援と反オランダ運動を行った。招へいされたイスラム有識者のひとり、スーダン人シ
ェイッ・アッマッ・シュルカティは後に私立教育機関Al-Irsyadを興している。

ジャミアトゥルケイルが中東のイスラム世界と密接な関係を築き、中東の印刷メディアの
輸入や中東メディア界への蘭領東インド情勢の報告などを送ったことから、スヌーク・フ
ルフロニェはジャミアトゥルケイルを激しく敵視し、オランダ植民地政庁を危険に陥れる
者として行政側に警告している。


プコジャンのJl Pengukiran III通りにある、百年を超えているブタウィ様式の邸宅は現
在、都庁が歴史遺産建造物に指定している。長さ60メートル幅20メートルの家屋に現
在も住んでいる80歳代のアブドゥラッマン・アラタスさんの話によれば、幼いころ、そ
の家の周辺は藪だらけの空き地になっていて、家の表は川が流れていた。その川が埋め立
てられて第3プグキラン通りになったのだそうだ。[ 続く ]