「カンプンアラブ(7)」(2022年04月05日)

Boomという言葉はオランダ語の樹を意味している。植民地時代にはヌサンタラの港々に税
関が置かれて、船から出し入れされる物品物資に関税がかけられ、出入りする船からも入
港料が徴収された。入港料を払わないで逃げる船の対策をどうしたか?港の出口に巨木を
浮かべて、船が乗り越えられないようにした。ボームとはその巨木のことだ。

その海岸にボームという名称が付いているのなら、そこにはかつてオランダの税関があっ
たはずだ。税関があったということは、そこが商港であったということを意味しているに
ちがいあるまい。バニュワギからオーストラリアへのバナナ輸出はアラブ商人に握られて
いたという話もある。植民地行政がボーム海岸にあったバニュワギ港から近い場所にカン
プンアラブを指定したのは、何らかの思惑があったためではないだろうか。

1974年1月1日にボーム海岸からバニュワギ港が消滅した。ジャワ=バリを結ぶ海上
交通路はずっと北のクタパン港に移り、また商港機能ももっと北のムヌン村にタンジュン
ワギコンテナ港が建設されて移ってしまったのである。だから現在、バニュワギ港という
港は存在せず、単なるボーム海岸という場所があるだけであり、そこは住民の行楽地にな
っている。

バニュワギのカンプンアラブにはカピタンアラブがいたそうだから、このアラブコミュニ
ティはそれなりの規模になっていたのだろう。1911年にはアラブ学校アルイルシャッ
がオープンした。オランダ植民地行政は非プリブミの子弟を学校教育の対象にしなかった
ために、アラブ系子弟のための学校が必要になり、そこではアラブ語と宗教教育が行われ
た。学校があった場所は現在ブランバガン市場になっている。

18世紀にはバニュワギ県令のプリンゴクスモがハドラマウトからウラマを招いてイスラ
ム布教を行わせた。やって来たサイッ・ダトゥッ・アブドゥラヒム・バウジルの活躍で、
それまでヒンドゥ文化の濃かったバニュワギが大いにイスラム化したそうだ。


現在のカンプンアラブは、アラブ人居住区でなくなっている。独立後のインドネシア共和
国は、植民地時代の分割支配の象徴とも言える分離居住制度を嫌って誰でもどこにでも居
住する権利を認めているから、今ではウシン族・マドゥラ人・ジャワ人とアラブ人が入り
混じって住んでいる。アラブ人と言っているが、もちろんアラブ系プラナカンのことだ。

カンプンアラブの大通りには、家具店、ムスリム衣装店、ロティマリアム・ナシクブリ・
ヤギ肉料理などのアラブ風食べ物の店などが並び、ラマダン月になるとデーツの実やブカ
プアサのための飲食物を買ったり、ヘンナ装飾をしてもらう消費者で賑わう。

ヘンナ装飾絵描き人のひとりイカさんは、自分はアラブ人とマドゥラ人の混血だと言う。
昔パンパン湾で商売していたアラブ商人の子孫たちは今日、家具ビジネスや建築資材・布
などを扱っている。ロティマルヤムやヤギのブイヨンはカンプンアラブを代表する食べ物
であり、それがバニュワギの伝統料理であるナシテンポンやルジャッソトと肩を並べてい
る。アラブ語のレッスンを受ける者もいまだにいる。ところがカンプンアラブの子供たち
が使っているのはUsing語だ。ウシンあるいはオシンとはバニュワギ土着の種族で、かれ
らが使うウシン語はオーストロネシア語族の台湾系とされている。


南スマトラ州パレンバン市内にもカンプンアラブがある。第二スブランウル郡13ウル町
のアルムナワル部落がパレンバンに最初にできたカンプンアラブだった。スルタンパレン
バンの時代にやってきたアラブ人はそこに集団で居住し、今日に至った。およそ三百年の
歴史を持っていて、スルタン時代の面影を今に残す町並みを見ることができる。

市内を貫通しているムシ河の橋を増やすために市庁は第3ムシ河架橋計画を進めていたが、
橋の建設場所が13ウル町を通ることになったために一部の住宅が撤去されることに反対
する声がカンプンアラブ住民の間から起こった。最終的に市庁は橋を架けることをやめて、
トンネルでムシ河の下をくぐる計画に変更している。[ 続く ]