「カンプンアラブ(終)」(2022年04月06日)

ヌサンタラにやってくるハドラミの中継基地になったシンガポールにも、当然ながらカン
プンアラブができた。カンポングラムのアラブストリート界隈がそれだ。ラフルズのシン
ガポール都市建設の青写真の中で、この地区がムスリムクオーターに指定されていた。

ムラユ人およびアラブ・インド・ブギス・ジャワなどのムスリムのための居住地区だ。し
かしシンガポール共和国は国民が混じり合って暮らす複合民族国家を目指して、大量に建
設されたフラットの中で混在する方針を推し進めたために、名前はアラブストリートでも
その中身にアラブ文化の生活臭はない。

シンガポールとマラヤ半島一帯がイギリスの海峡植民地だった時代、民族種族別のコロニ
ーは作られても、オランダがヌサンタラで行ったようなカピタン制度による自治システム
は行われず、全民族種族は地域行政官の下で同一の法令によって扱われた。イギリスとオ
ランダの違いがそんなところにも表れている。


2006年のインドネシア語記事の中に、シンガポール人口4百万人中のイスラム教徒は
50万人で、アラブプラナカンは1万人に満たないという情報が見られる。一方、インド
ネシアのアラブプラナカンは5百万人いるそうだ。

かつてのアラブ系はもっと勢力が大きく、影響力も強かった。モスクもあちこちに建設さ
れたし、マドラサのアルジュナイッスクールも作られた。アルジュナイッは地名になって
残されている。このマドラサではアラブ語と英語が必須とされた。

アルジュナイッ、アルサゴフ、アルカフ、ビン・タリブ・ビン・ヤマニらの一族がシンガ
ポールの土地の三分の二を所有した時代があったそうだ。バタヴィアと似たようなことが
きっと行われていたのだろう。アルカフ一族は1950年代半ばごろまでジャカルタのク
ウィタン地区でたくさんの借家を所有していたし、本拠のハドラマウトでも大地主だった。

クウィタンに住んでいたアルカフはマラヤ国籍だったので、1957年8月31日にマラ
ヤがイギリスから独立したとき、盛大な祝賀パーティがクウィタンの邸宅で催された。マ
ラヤと言ってもアルカフの活動根拠地はシンガポールであり、そのときのマラヤ独立はシ
ンガポールをマラヤの中に含んでのものだったということだ。


シンガポールに69あるモスクのうちのもっとも古いものはスルタンモスクで、ラフルズ
が漁村テマセッにシンガポールを建設したあと、ほどなく建てられた。アラブ系プラナカ
ンがよく集まるモスクはそのスルタンモスクとバアラウィモスクだそうだ。

他にアラブ系プラナカンが集まる機会は結婚式・葬式くらいしかないらしい。ブキティマ
にあるバアラウィモスクはハビブ・ムハンマッ・アラタスが建て、1952年9月9日に
ジャカルタはクウィタンのハビブ・アリ・アルハブシがオープニングを宣した。

カンポングラムのスルタンモスクとスルタンパレスのある一帯にはイスラム風のカフェや
食堂あるいは遊興施設があり、ムスリムの若者が遊びに来る。中ではハドラマウトに由来
するガンブス音楽が流れ、来店客は厚い絨毯の上でザフィンダンスを踊る。zafinはイン
ドネシアでzapinと呼ばれている。流されるガンブス音楽の多くはインドネシアで制作さ
れたカセットだ。

華人系にとってもハドラミ系にとっても、シンガポールとインドネシアは地理的に一体の
ものであるにちがいあるまい。[ 完 ]