「ワトゥグヌン」(2022年04月12日)

ライター: コラムニスト、ブレ・ルドノ
ソース: 2014年1月26日付けコンパス紙 "Watugunung"

本当にびしょ濡れの季節に訪問したとき、ジャン・クト―はイ・グスティ・ニョマン・ダ
ルタとジョルジュ・ブレゲとの共作になる新著Time, Rites and Festivals in Baliをわ
たしに示した。「少なくとも、ワトゥグヌン神話の部分は読んでくれ。」

バリ在住のフランス知識人はそう言った。以前からかれはバリ社会のコスモロジー、特に
時の概念に関する理解、に興味を抱いていた。この前にかれは、フランス語でほとんど類
似の著作les calendriers tika de Bali, un autre tempsを2002年に出している。


バリとジャワの社会に知られているワトゥグヌン神話とは何か?バリエーションがはなは
だ多い。たとえば、人物や場所の名前が異なっている。ただし物語の論旨は同じだ。ジャ
ン・クト―の新著に書かれたバージョンはジャラサンガラのクラギリ王の物語になってい
た。王はデウィ・シンタ・カシとデウィ・ランデップのふたりの妻を持っている。

デウィ・シンタが妊娠すると、クラギリ王はマハメル山に引きこもって瞑想三昧に入った。
デウィ・シンタの臨月が近付いたというのに、王はいつまで経っても麓に下りて来ない。
デウィ・シンタとデウィ・ランデップは相談し、王を探しに山へ登ることにした。捜索行
は成果がなく、反対にデウィ・シンタは山中の大石のそばで男児を産んだ。

赤児の出産はブラッマ神の予言に付き添われた。この児は将来強者になり、大地と山々を
支配する。20人の王子を降して部下にする。この児はただ、水の神ウィスヌ神の化身で
ある、亀の頭をした5つの爪を武器にする者に敗れるだけだ。


赤児の時から母の養育の手から離されたその児ワトゥグヌンは、本当に大王に成長した。
自分自身の由来を知らないかれは、実の父親を殺し、その妻ふたりを自分の妻にした。生
みの母と義理の母、つまりデウィ・シンタとデウィ・ランデップだ。あるときワトゥグヌ
ンの来歴を知ったデウィ・シンタとデウィ・ランデップは計略をめぐらせた。ワトゥグヌ
ンにはもっと若い妻が必要です。夢に出て来たその若い妻はデウィ・ナワン・ラティだっ
たのですよ。デウィ・ナワン・ラティはウィスヌ神の妻なのである。

ワトゥグヌンは亀の頭と5つの爪を武器にするウィスヌ神の化身と対決し、永遠という呪
いに敗れて降伏した。ワトゥグヌンは自らを暦、つまり時に関する知識に変化させた。


バリの農耕社会の暦にはパウコンあるいはウクと呼ばれるシステムがある。時はリニアで
なくサイクルであると理解されている。シンタとワトゥグヌンは遠く離された。なぜなら、
母子相姦は自然の法則に背くものだからだ。この観念はユニバーサルなものであり、ギリ
シャ神話にもソフォクレスが書いたオイディプス物語があって、オイディプスコンプレッ
クスという術語が作られている。

シンタはサイクル状の時を開くものになった。続いて、ワトゥグヌンによってサイクルが
閉じるまでの間、種々のウクが配分される。そのサイクルの中に知識の神サラスワティの
ような祭日がいくつかある。そこでの知識はたいへん広い意味を含んでいて、意識や覚醒
と取ることもできる。言い換えると、時をサイクルと理解する社会において、時は単なる
量的な抽象性ではないということだ。たとえば、数カ月後に何が得られるか。豊かになっ
ているかどうか。人気者になっているか、それとも名前の売れないセラブリティなのか。
数年後に何ができるか。有効な洪水対策ができているのかどうか。

自然のサイクルにおける時の理解では、時は質的性質を帯びる。その中に良否・正誤・善
悪等々に関する知識が散りばめられる。マクロコスモスの混乱はミクロコスモスの混乱に
関係していると見なされる。

われわれは自分自身と周囲のひとびとを自然のサイクルに映して見ることができる。たと
えば天災をこうむった国の中央にいる者が恥ずかしげもなく他人を非難し、それを選挙キ
ャンペーンの舞台にすることに精魂を傾け、現場を励ましに行くような顔をしてピクニッ
クし、政党の世話を焼き、インスタグラムに書き込むことに没頭し、等等等のようなこと
だ。ああ、今の人間はカルマを信じないばかりか、恥さえ知らないのではないか・・・