「ソトの世界(2)」(2022年04月14日)

スマランの住民は子供の頃から食べているソトスマランが一番おいしいと言う。ところが
ソロの住民はソトソロが一番だと言う。お国自慢も混じっているだろうが、子供時代に慣
れ親しんだ味は、本人のノスタルジーの琴線をかき鳴らすにちがいあるまい。

ソロに住む71歳のお年寄りは言う。「ソトソロはフレッシュで、ココナツミルクを使わ
ず透明な汁になっている。それこそがホンモノのソトソロだよ。」

ソロ市内から10キロほど離れたカランアニャルに自宅があるかれは、タシッマドゥ製糖
工場で働いていたころ、昼食は毎日ソトを食べていた。そのころは一杯が5ルピアだった
そうだ。休日には子供をオートバイに乗せてソロ市内にソトを食べに行った。ソトとクル
プッだけで十分に飯のおかずになった。時にはプルクデルやサテを加えることはあっても、
それがないと不足するということは決してなかった。

ジャカルタのスディルマン通りで会社務めしているソロ出身女性は、ジャカルタであまり
ソトを食べないと言う。ジャカルタのソトは値段が高い割に内容が乏しいために、つり合
いが取れていないとかの女は言う。だからソロに帰郷したときに、思いきりソトソロを堪
能して来るのだそうだ。

タングランで自営業を営んでいる男性は、大学生時代をヨグヤカルタで送った。かれはヨ
グヤのソトを懐かしく思い出すことがある。ソトのワルンが午前7時に店開きすると、大
勢の客が朝食を食べにやってくる。かれの行きつけの店は二カ所あり、ひとつは臓物の薄
切りとモヤシと春雨が入っている。もうひとつの店はキャッサバのプルクデルが付く。ソ
ト○○と地名を冠した料理になってはいても、その地方で各店主・調理人は自分の店の特
徴を出そうとして差別化をはかる。だから○○の町へ行ってソト○○を食べても、店によ
ってどこかしら異なったものになっているのが普通だ。言葉に惑わされて一様の物と思い
込むのでなく、人間の営みに注意を向けることも肝要だろう。


ソト販売者が身代を広げて大きく成功した実例のひとつが、スマラン市内にあるレストラ
ンSoto Bangkongである。店主のソレ・スカルノさんはクラテン出身だが、インドネシア
独立前からスマランのプトゥロガン地区でソトの巡回販売を始めた。ソトの作り方は父親
に教わった。日本軍政期間中も商売を続けていたが、終戦後の1945年10月15日に
起こったスマラン事件のために、かれはスコハルジョに避難した。

スマランに戻ったのは1950年で、ソトのカキリマ屋台を仕切っているジュラガンから
バンコン交差点近辺の縄張りをもらい、バンコン郵便局の脇にアンクリガンを置いて商売
を再開した。開店は午前7時で、売切れれば店を閉めるが、売れ行きの悪い日は21時ご
ろまで頑張っていたそうだ。

かれのソトが美味いという話が町の噂になり、ひとびとはかれのアンクリガンをソトバン
コンと呼ぶようになった。バンコンはジャワ語とスンダ語でカエルを意味しており、初め
ての客の中にはカエルの肉を使ったソトと思って食べにくるひとがいたそうだ。ところが
供されるのは他のソト屋台と似たようなソトであり、ただ旨さが違っていた。ともかく、
その名が有名になったために、かれはそれを屋号にして商標登録し、そして郵便局の脇に
食堂を建ててソトバンコンの看板を出したのである。

ソトバンコンはしっかりした資産になった。かれは子供たちに学歴をつけさせ、そのうち
のふたりはドイツの大学を卒業している。完全な自費留学だった。かれ自身ももう二回メ
ッカ巡礼を果たしている。

ソトバンコンは今や全国に12の支店を持つソト食堂業界の大手だ。マカッサルやゴロン
タロにも支店があるのだ。ソトバンコンの看板を出しているそれらの支店はすべてかれの
子供と孫たちが経営している。

かれは子供たちがソトバンコンの資産をめぐって醜い争いをしないように、子供たちに支
店を開く権利を与えた。子供ひとりひとりは孫の数プラス一軒の支店を開く権利を与えら
れた。子孫繁栄がビジネス網拡大と同期している一例だ。[ 続く ]