「爪を研ぐ人間(後)」(2022年04月20日)

他のことわざに:
・belum sekuku lagi まだ爪らしくなりきっていない
これは上述の「爪もないのに抓りたい」と似たようなもので、自分の優れていることを他
人に見せびらかしたい心理を衝いている。自分は他人にまさると思っていても、世間から
見ればたいしたことはないのだ。自分は何でも知っていると思っている人間、金持ちにな
ったとして威張りたい人間、ほんの少し与えられた権力にのぼせ上がる人間、自分は美女
だと鼻にかける人間。その種の慢心は、世界のどこへ行こうが嫌われる。

爪が攻撃性のシンボルにされていないことわざもある。
・sebagai kuku dan daging 爪と肉のよう
これはふたつのものが一心同体になって切り離せない状態を例える表現で、相思相愛のふ
たりがこのように言われたりする。これはポジティブな内容であり、攻撃者と被害者とい
う関係を意味しているのではない。

だがしかし、相思相愛のふたりがbagai kuku dengan dagingと形容される状態も長続きは
しない。一心同体の蜜の季節もたいていは、互いに爪を立て合って血だらけになる形で終
局を迎える。それは世界のどの民族においても、一般通例であるようだ。地球上のあらゆ
る場所で起こった歴史上の事実の中に必ず散見されるものだろう。結局爪は、人間の攻撃
性に再びたどり着いてしまった。

< 人間と野獣 >
インドネシア人が爪を、強さ・脅威・危険・権力などのシンボルに使っているのは、何ら
不思議なことではない。権力を握る人間たちは鋭い爪を持ち、馬のようにそれを自己防衛
のために使うのでなく、攻撃し殺すために使っている。そのための爪、つまりは権力、を
かれらは公式・非公式に手に入れる。公的な爪は国政総選挙や地方選挙を通して手に入れ
る。いや、もっと下部にある小規模な選挙実施機関や、学校・大学などでも手に入る。非
公式の爪は大衆動員などの手法で手に入る。インドネシア人がグループ組織を編成するの
に忙しいのは、爪を研いでその鋭さを倍加させるためなのだ。忙しいインドネシア人がと
ても多いのも当然の帰結にちがいあるまい。

爪をたくわえた人間は獰猛なトラによく似ている。ただし人間の獰猛さはトラやクマのそ
れとは異なっている。トラやクマは奇蹄類動物がほとんどを占める餌食を捕らえて食えば
それで終わる。ところが人間は同類まで食うのだ。人類の歴史の中に、人間の比類のない
獰猛さが随所に描き出されている。人間は他の人間を食ってきた。人間の獰猛さはケダモ
ノをしのいでいる。人間というのは、一体どのような動物なのだろうか?

人間の爪は他者を保護するためのものではない。ましてや自己防衛のためでもない。その
点において、インドネシア人は水牛にたくさんの教えを請わなければならないだろう。
[ 完 ]