「ソトの世界(8)」(2022年04月25日)

ダシ汁が別椀で出て来る店もあれば、最初から飯椀にかけられて出て来る店もある。店側
が飯椀に汁をかける場合、飯椀に温かい汁をかけたあとに汁だけを鍋に戻し、また汁をか
けては戻すことを繰り返す所もある。そうすることで、ダシ汁の味が飯にしっかりとしみ
こむのだそうだ。味噌汁でそんなことをすれば、どやしつけられるかもしれないが。

*[soto Kudus]*
ニワトリの裂き肉とモヤシの入ったソトラモガンに似ているソトアヤムが一般的だが、水
牛のソトもある。使われるブンブは赤バワン・ニンニク・ウコン・ショウガ・ククイ・コ
ショウ・コリアンダー・塩・砂糖で、中部ジャワ人にとって砂糖の甘味は料理に不可欠な
のだ。

ソトクドゥスは牛を使わない。これはイスラム布教の九聖人のひとりスナンクドゥスが、
クドゥスでイスラムに入信したひとびとに与えた教えにもとづいている。その教えとは、
ムスリムは同じ土地に暮らしている異宗教徒を尊重するべきであるという内容だった。イ
スラム化以前にクドゥスにいたのはヒンドゥ教徒+仏教徒だったから、特にヒンドゥ教徒
が崇める牛を屠殺して食べないように勧めたことに由来しているのである。

ヒンドゥ教+仏教の社会をイスラム化するのに、マイノリティのムスリムが最初から好戦
的であれば弾き飛ばされる可能性が高かったにちがいあるまい。ジャワのイスラム化がイ
スラム王国行政によるトップダウンの強権だけでなく、草の根レベルでの宥和的スタイル
も併せて使ったことが、現代のイスラムヌサンタラの基盤を生み出したように思われる。

*[soto Lamongan]*
ソトアヤムが一般的で、具はモヤシでなくキャベツのみじん切りが使われ、トマトとネギ
葉が加わる。ソトラモガンをもっとも特徴付けているのは汁にkoya(poya)が混ぜられて濁
った液体になっていることだ。

コヤはクルプッウダンと揚げニンニクを粉末状にしたもの。エビがたっぷり入っているク
ルプッウダンを使うのが、おいしいコヤを作る秘訣だ。ブイヨンを溶かしたソト汁にコヤ
が入ると、汁の旨味が格段に違ってくる。

ソトラモガンがソトマドゥラのバリエーションだという説があるのだが、ソトラモガンは
ニワトリがマジョリティを占め、牛肉と臓物が有力なソトマドゥラやソトスルンとは方向
性が違っている。またソトラモガンはウコンとスレーの使用量がソトマドゥラの比ではな
く、そのために外見も味も顕著に違っている。加えて上述のコヤ(ポヤ)という秘密兵器
がソトラモガンとソトマドゥラの違いを更に際立たせている。

ソトラモガンがヌサンタラを制覇したのは、ラモガンの土地と自然が農業にあまり適して
いなかったのが最大の要因だった。貧しいラモガン県に工場誘致すら起きなかったことが
住民を出稼ぎに駆り立てた。出稼ぎとは言っても、移住した先で雇われて働くのでなく、
食べ物ワルン商売を行うのである。ラモガンのひとびとには、ソトとナマズ料理のプチュ
レレがあった。その料理の腕をさすりながら、何千人ものラモガン住民が続々と故郷を後
にした。

オルラ時代にはまだ移住の動きが見られなかった。移住が始まったのは1965年のG3
0S事件のせいだった。赤狩りがヌサンタラの全土を覆ったとき、共産主義者の烙印を捺
された人間は闇から闇に葬り去られた。田舎に住んでいれば、怨恨や利害のためにいつ自
分にその烙印が降りかかって来るか知れたものでなかった。ラモガンにいては危ない。ひ
とびとはより安全な都会であるジャカルタに移住した。移住者の多くがソトのワルンを開
き、ソトスラバヤの看板を出した。かれらはラモガンという地名に自信が持てなかったの
だそうだ。

ジャカルタで開いたソト商売が調子の波に乗ると、かれらは故郷の兄弟や親族を呼び寄せ
始めた。70年代以降、移住者の波がラモガンを出て行く時代が続いた。80年代まで、
ラモガン出身者のワルンはソト一辺倒だったが、90年代に入ってプチュレレの二本立て
が始まった。

食べ物ワルン商売の第一段階は普通、道路脇や空き地に屋台を置いて行う。商売の立地条
件がよい場所は地回りヤクザが権利を持ち、その場所を使って商売する人間からショバ代
を取る。だから通常、屋台を道端に据えて商売しているひとたちは、地主であるヤクザ者
たちと関係を持つことになる。[ 続く ]