「ヌサンタラのインド人(2)」(2022年04月26日)

さて、世界最古の文明のひとつであるインド(インドゥス)文明が高揚して、あたかも水
が低きに向かって流れ出るように、東側にある低地に流れ出した。つまり東南アジアだ。
陸続きの地ばかりでなく、海を渡ってヌサンタラにもやって来た。

西に流れなかったのは、シンドゥ河の西にペルシャという文明の高原が存在していたから
だろう。インドにとって文明の低地は東と北しかなかったようだ。水流の方向はおのずと
決まった。

文明の伝播は古来、人間の移動によって行われてきた。低地者が高地に上って文明の産物
である文化を識り、それを低地に持ち帰ることと、高地者が自らの文化を携えて低地者に
君臨しようと下りて来ることの双方向で起こるのが普通のパターンのようだ。

わたしはここで、文明という言葉を人間の精神活動面におけるものとして増幅させて使っ
ていることをお断りしておこう。文化はその精神活動が生み出した事物であり、具象的な
「物」から観念的抽象的な「もの」まで含んでいる。自動車というのはあくまでも「物」
なのであり、それをどんな仕組みで動かすのか、どんな形にするのか、それが社会で動く
ことによって社会生活にどんな効用を出現させるか、といった諸命題にある「仕組み」
「形」「効用」などもすべて文化と見なされる。自動車に翼を付けて空を飛ばそうという
発想をし、それを実現させる力が文明なのである。

例としてはちょっと歪むかもしれないが、高高度の上空から大量の大型爆撃機で敵地を絨
毯爆撃する発想と、それを実現させ、また最大の効果を得るように必要なものを作り上げ
て行ったパワーがわたしの言う文明だということになる。そう、人類史の最初から、戦争
に勝つためには文明のパワーが必要とされた。戦争のための文明は敵になった人間をいか
に大量に殺傷するかという目的に絞られて行く。文明という言葉を人類の進歩や善といっ
たものにだけ結び付けている観念を信奉していては、文明というものの本質が見えないの
ではあるまいか。


西暦紀元1世紀ごろからインド人の東南アジア進出が始まった。そのころ既にヌサンタラ
にやってきたひとびともいただろう。個人の行動は伝承民話のたぐいで残されたものがあ
るとはいえ、年代をつかむことのできるものはなかなか存在しない。

一方、王国の盛衰については、さまざまな歴史遺産が残されたために、種々の記録を総合
しておおよそ何があったのかを考古学者たちが解明した。その中に古代のスンダ地方に興
ったSalakanagara王国の話が見つかる。

現在のバンテン州パンデグラン県にあるTeluk Lada沿岸部にサラカナガラと称する王国が
あった。王国の開祖はDewawarman王で、西暦130年に王位に就き、168年までの間に
スンダ海峡海岸部全域を支配下に置いた。ジャワ島側からクラカタウ火山を含めてスマト
ラ島ランプン州沿岸部までの広大な地域だ。クラカタウ火山はその時代にApuynusaと呼ば
れた。現代インドネシア語に翻訳すればNusa Api(火の島)だ。

ムラユ語は修飾関係が後ろから前にかかるが、インド語は前から後にかかる。インド語源
の言葉がそのままインドネシア語に摂りこまれたものは、bumiputeraやperdana menteri
のように修飾関係が反対になっている。


デワワルマンはインドにあった王国の王子で、ヌサンタラにやってきてからトゥルッラダ
地方の首長だったアキ・ティレムの娘のポハチ・ララサティを妻にし、スンダ海峡一帯の
諸地方を斬り従えて一大王国を築いたとされている。

中国の史書には西暦132年に叶調国からの朝貢使節が到来したことが記録されている。
ジャワを意味する叶調は後に葉調と書かれるようになるが、中古音はどちらもjiepdeuで
現代中国語発音のyetiaoとは違っている。ともあれ、インドネシアの史学界は後漢に朝貢
したジャワ国がサラカナガラだった可能性がきわめて高いと考えているようだ。[ 続く ]