「ヌサンタラのインド人(3)」(2022年04月27日) 東カリマンタンのマハカム河の河口に作られたクタイ王国は西暦350年に始まり、ヒン ドゥ王朝として1605年まで続いてからイスラム化した一族に取って代わられ、スルタ ン国になった。 クタイヒンドゥ王国初期の歴史は4世紀に建てられたユパの碑文が伝えている。パッラワ 文字で書かれた碑文はサンスクリット語が使われており、バラモン階層が王の偉業を称え るために作ったと解釈されている。ムラワルマン王が祝祭の大饗宴を催し、1千頭の牛が 屠られたといった内容だ。 プルナワルマン王の治世下に発展したジャワ島古代王国Tarumanagaraは西暦358年に建 国され、スリウィジャヤ王国の侵攻によって669年に滅び、属国化した。プルナワルマ ン王の下に国威を輝かせたのは西暦395〜434年のことで、その時期に建てられたチ リンチンのトゥグ碑文には、プルナワルマン王の即位後22年に行われたChandrabhagaと Gomatiの川の12キロにわたる治水工事が完成し、バラモン層がその完成を祝って祭祀を 行い、王は1千頭の牛をその祝宴のために与えたと記されている。現代インドネシアの各 地で行われているSelamatanと呼ばれる催事の源流がそこにあるのだそうだ。 タルマナガラ王国は王都Sundapuraをブカシ県北部ジャカルタ寄りの場所に置き、言葉は スンダ語とサンスクリット語が使われ、ヒンドゥ教・仏教・スンダウィウィタンが公式宗 教とされた。 西暦6世紀ごろ、ジャワ島中部北岸部にKalingga王国が興った。英語やインドでのアルフ ァベット表記ではKalingaと書かれる。インドネシア語でKa-ling-gaと綴られるのは日本 語発音のカリンガと同じように発音させるためである。インドネシア語でKalingaと表記 されると分節方法が変わってKa-li-ngaと発音され、語尾の音が鼻音のガ「カリ~ガ」にな って原音と異なってしまうからだ。英語では分節がKa-lin-gaとなるものの、-lin-の音節 は後ろの-gaに引きずられて鼻音の-ling-に変化するから、インドネシア語のKalinggaと 英語のKalingaの発音はまったく同等同質の音で聴こえる。 これは異なる言語が持っている異なる音表記ルールに従って起こっている違いでしかない のだが、文明が言語にもたらした文字というものを尊ぶあまり音を蔑むようになった現代 文明人にとっては、ひょっとしたら大問題になるのかもしれない。 カリンガ王国草創期のことはいまだ薄明の中にある。この王国に関して歴史記録に登場す るのはShima女王のエピソードだ。シマ女王は西暦674〜732年の間、王位にあって 王国を治めた。かの女はいったい何歳のときに王位に就いたのだろうか? 中国の史書を読むと、華人が悉莫シマ王女を女王になるように勧め、その結果王国は大い なる発展を遂げて、カリンガ王国は中部東部ジャワの28の小国を支配する大国になった というような内容に出会う。最初は王都をJeparaに置いたが、後に錦石Gresikに移したそ うだ。カリンガ王国が何度も中国に朝貢使節を派遣したので、中国王宮にはおなじみの国 になっていたのだろう。 シマ女王は正義と公平による秩序を王国に徹底させるべく、全領民に対して法令の厳正な 適用を行った。そのため、シマ女王の国では領民が秩序正しくまた平穏安全な社会生活を 営んでいた。 たとえば他人の所有物に無断で手を触れたら、盗みを意図した行為であるとして腕を斬り 落とされた。だから道に何か金目の物が落ちていても誰もが見て見ぬふりをし、みんなが それをよけて通る始末だった。[ 続く ]