「ヌサンタラのインド人(4)」(2022年04月28日)

その噂を聞いた海の向こうのある国の王が、その評判を確かめようとして黄金の入った巾
着を王都の目抜き通りの十字路に置かせた。三年間、その巾着はそのまま同じ場所に置か
れたままだった。だれひとり、それに触れようとする者もいなかった。

あるとき、シマ女王の長男である皇太子がその十字路を通りかかり、気が付かないまま巾
着の傍を通り過ぎようとして足が巾着に触れ、巾着が動いて場所を変えた。巾着の位置が
変わっていることに気付いた役人がその原因を調べた結果、皇太子の足が犯人であること
が判明した。

女王は法の厳格な執行を主張して皇太子に死刑を言い渡したが、王宮の高位者たちがとり
なし、法に触れたのは皇太子の足であるという論理で死刑を取り消させた。しかし皇太子
が片方の足を失うことは免れなかった。


シマ女王の娘パルワティはスンダのGaluh王国の二代目国王の妃になった。シマ女王の孫
娘のサナハはガル王国三代目の王ブランタスナワの妃になった。サナハとブランタスナワ
の息子の一人サンジャヤが、732年に没した曾祖母を後継してカリンガ王国の王位に就
き、スリウィジャヤの侵攻に敗れたために古マタラム王国を興してサンジャヤ王朝の開祖
になったというのがカリンガ王国の歴史のようだ。

カリンガ王国の首都はジュパラのKelingに置かれた。使われた言語は古ムラユ語とサンス
クリット語、公式宗教はヒンドゥ教と仏教だった。ジュパラ県には今もクリン郡が存在し
ている。このクリンという語が最終的に、インド人の代名詞としてヌサンタラで使われる
単語になったのである。

VOCも16世紀に住民人口統計の中で、インド系住民をKelingというカテゴリー名称の
中に括っている。ジャワとスマトラの港湾都市にはたいていクリン系住民が住んでいた。
そもそも、カリンガという名称はインド亜大陸東海岸部にあった王国の名前で、西暦紀元
前3世紀にアショカ王に征服され、前1世紀ごろには復活し、紀元4世紀ごろにはグプタ
朝の支配下に落ちるといった盛衰を繰り返してきた土地だ。

そのカリンガの名前を付けた王国が中部ジャワに生まれたことについて、インドのカリン
ガ王国支配階層の一部が流浪の果てにそこまでたどり着いて6世紀初期に建国したという
説が語られている。

ところが中には、インドのカリンガ地方の民衆の集団移住でジャワ島にカリンガ王国が作
られ、宗教・文学・水稲技術などがジャワ島にもたらされたという仮説を論じる向きもあ
るのだが、人間の集団移住が起こるのは故郷の地で生きて行くのが困難になったからだろ
うし、その原因を作ったインドの事件というのが何だったのかについての説明にアショカ
王が登場しては、建国まであまりにも長い年月が経過していて、どうも今一つしっくりし
ない気がする。

インド人のヌサンタラへの移住は4〜11世紀にひとつのエポックが作られ、バラモン層
やクサトリア層が移住者の主体を成したとインドネシアの史学界は結論付けている。そし
てインドでのカースト制の慣習に従ってヌサンタラでも同じようにふるまったために、高
貴なインド人移住者たちはヌサンタラの王侯貴族階層とだけ交わり、ヌサンタラに既にで
きていた支配制度をインド文明化させていくことになった。[ 続く ]