「ワルン(1)」(2022年04月28日)

座り込んで飲み食いしながら仲間と駄弁ったり、あるいはボーッとしたりして時間を費や
すことをインドネシア人はnongkrongと言う。英語ではhang outだろう。インドネシア語
での標準語形はmenongkrongであり、語根はtongkrongだ。ノンクロンはムノンクロンから
ブタウィ式に接頭辞me-の脱落した形になっている。つまりきわめて口語的でガウルな表
現と言うことができそうだ。

KBBIにtongkrong/menongkrongの語義は、1 berjongkok; 2 duduk-duduk saja karena 
tidak bekerjaと記されている。イ_ア語日語辞典には、座り込んで時間を潰す、とぐろ
を巻くと書かれている。

何かの用事で数人の仲間とどこかへ行った帰り道に「あのカフェでノンクロンしようぜ。」
と誘ったり誘われたりしてカフェに入ったはいいが、いざテーブルに着いたあとは全員が
ケータイにかかりきりになって、みんなうつむいて黙り込み、忙しそうに一生懸命ケータ
イをカチャカチャやっている情景が今では普通のものになってしまった。実態がそんな風
に変化してしまったノンクロンの定義はこの先いったいどうなるのだろうか?


ノンクロンという行為についてジャーナリストのアンドレアス・マルヨト氏は、カフェに
やってきてノンクロンしている一般庶民の姿が当たり前の光景になっている北スマトラ州
メダンの文化に驚かされたと2010年のコンパス紙に書いた。その一部を少し抜き書き
してみよう。

北スマトラ州内で、中でもメダンの街中でその習慣は顕著なようだ。街中の至るところに
そんな店があり、国際チェーンカフェが増加している一方で伝統的な店も確固としてその
地位を保っている。

ジャワ人の筆者が1998年にはじめてメダンを訪れたとき、ジャワには見られないユニ
ークなその光景に驚かされた。ジャワ文化が持っている価値観ではそのような場所にネガ
ティブな評価が与えられていたため、その種の店が至るところにオープンしている風景を
目にすることがなかった。まっとうな生き方をしない者や勤労を厭う者たちが集まる場所、
有用なことをしないでただ時間を浪費するための場所、等々のネガティブなレッテルがそ
こに貼られていたのである。

ジャワでは親が子供に、道端でノンクロン(ここではjongkokの意味)したり、ノンクロ
ン(こちらはhang outの意味)の徒と交わって道端や店で座り込んだりしないように言い
聞かせていた。そのような姿を社会に示す者はたとえ子供であっても、親や他人の忠告を
聞かないで世間のならわしに反抗する人間、自分がなすべきことを怠って好きなことだけ
をする人間という評価が与えられたものだ。子供がノンクロンしていたことを知った親は、
必ず子供を叱った。


アンドレアス氏は古い新聞の記事を引き合いに出した。1916年7月1日付け日刊紙ス
アラジャワSoeara Djawaの記事にはこんな文章が見られた。「比較してみるがいい。ジャ
ワの地で公務員の給与はわずか30フルデンだ。かれらのほぼ全員がワルンでコーヒーを
飲むことさえしない。しかしデリーでは100フルデンもの給料をもらっている者たちが
飯屋ワルンで頻繁にコーヒーを飲んでいるのだ。」

それを書いたスアラジャワ紙の記者はジャワとメダンの間に横たわっている価値観の相違
を度外視したようだ。


アンドレアス氏がメダンでいろいろなひとびとにジャワの価値観について意見を聞いてみ
たところ、メダンのひとびとの方が反対に驚きを示した。コーヒーを飲みながら座り込ん
で話している内容は無駄話でなく、しばしば大きな取引の糸口になったりしている。朝な
どは、朝刊を読みながら話をしているひとも少なくない。そこでは情報が飛び交い、知識
がシェアされ、更に人間関係を広げて行く社交性までも織り込まれているのだ。

あるビジネス業界に属しているひとびとが定例的に集まって来て、情報交換を行っている。
新聞記者でさえ、町の噂を仕入れるのに利用しているそうだ。文化人のひとりは、ノンク
ロンが悪であるというジャワの見解は、民衆を働かせる立場にあるプリアイ層が作り出し
たものだ、とコメントした。[ 続く ]