「ヌサンタラのインド人(6)」(2022年05月04日)

インドにKalingaがあり、英語では中部ジャワのKalinggaをKalingaと表記しているものの、
中国語の訶陵は英語でHo-lingと書かれている。この語形の違いを分析しているものは見
当たらない。もしもジャワからの朝貢使節団が中国で自国の名称をKelingと語り、中国側
が訶陵と書いたのであれば、奇妙さは生じない。もしそうであるなら今度は、カリンガの
ひとびとが自国をクリンと呼んでいた可能性が出て来て、現代インドネシア歴史学界がカ
リンガと呼んでいるのはどうしてなのか、と前提に対する疑問がたぐり寄せられて堂々巡
りは尽きないのである。


シマ女王の没後、カリンガ王国は衰退に向かい、西暦752年にスリウィジャヤに滅ぼさ
れた。既述のタルマナガラ王国も、このカリンガ王国も、インドとの貿易面でスリウィジ
ャヤ王国にとっての強力な競争相手になっていた。スリウィジャヤが域内覇権を握るため
に立ち上がったとき、富を独占して支配権を振るうためには有力な競争相手に姿を消して
もらうのがあの時代の常識だったにちがいあるまい。

スリウィジャヤ王国のはじまりはよく分からない。中国僧義浄が書き残した671年のス
リウィジャヤの王都訪問が世界最古の資料になっている。そのころ、スリウィジャヤはイ
ンド文化の花咲く大都市になっており、仏教に関する学術レベルもきわめて高く、ナーラ
ンダの大学と遜色ない教育をパレンバンで受けることができるので、インドへ赴く前に1
〜2年パレンバンに滞在して勉学の足慣らしをしてからインドへ赴くのがベストだと義浄
はその著の中で後進にアドバイスしている。

パレンバンには1千人を超える仏教僧が仏法を学び、日々その実践に精進していた。その
ような教育ビジネスの基盤を作るには、インドの仏教界との深いつながりが求められる。

スリウィジャヤがインドと通商だけでなく文化的な結びつきを作り上げていたことは想像
に余りあるものだ。スリウィジャヤの王家の開祖にいずれかのインド王国の高貴な血が混
じっていたなら、その種のコネクションを築くのにそれほどの困難はなかっただろうと推
測されるのである。


スマトラ島に南インドから商人が大勢やってきていた事実がある。物産の産出国と故郷の
市場を股にかけて活動しているとき、物産の産出国に家庭を持って子孫を作ることをした
インド人がいただろうことは十分に想像される。産出国の住民として子供たちが成長すれ
ば、自分の商売に大きなメリットがもたらされたはずだ。

マラッカ海峡はヌサンタラのさまざまな物産を買いに来るインドやペルシャ・アラブの商
人たちの船が通過する航路だった。そのうちに、マラッカ海峡の寄港地に他の土地で穫れ
る物産を持って来て売ろうとすることも開始され、航海のための寄港地は商港に変化して
行った。そんな状況は西暦10世紀ごろから17世紀ごろまで続けられた。マラッカにス
ルタン国が勃興して東南アジア一円の物資の集散港になり、やがてその地はポルトガルに
奪われ、ポルトガル領マラッカはイスラム商船がボイコットしたが、非イスラム商船には
そんなことをする理由がなかった。最終的にマラッカをオランダが征服し、更にマラッカ
海峡沿いの商港を軒並み征服してスマトラ島東岸の通商独占を押し進め、一方イギリスが
マラヤ半島を征服する動きの中でマラッカ海峡はオランダとイギリスの池にされ、交易市
場としての意味合いを失った。[ 続く ]