「ヌサンタラのインド人(9)」(2022年05月09日)

そうして、チョーラ王国のスリウィジャヤに対する侵攻が1017年と1025年に行わ
れ、スリウィジャヤ王が捕らえられてインドに連れ去られる始末で、マラッカ海峡の覇権
をスリウィジャヤが握り続けることはできなくなった。タミル商人がスマトラ島東北部を
はじめとしてマラッカ海峡を包む諸港に地盤を築く機会が訪れたのである。

各港にできたタミル人社会が繁栄を謳歌した証拠を、コタチナに建てられたタミル寺院に
見ることができる。かれらは崇拝の対象にする石造りの神像を故郷のタミルナドゥから船
で運んできて寺院に設置した。石像の様式はヒンドゥ教もしくは仏教だった。


アチェ東北海岸部に並ぶアチェブサル、ピディPidie、ビルエンBireuen、アチェウタラの
諸県の沿岸地域にタミル人コミュニティがある。しかしもっとも典型的なのは北スマトラ
州のメダンだろう。メダンのタミル人社会では南インドの伝統的慣習が続けられている。

アチェのイスラム化はサムドラパサイスルタン国から始まった。このスルタン国は富裕な
グジャラート商人のグループが作り上げて、初代スルタンのマリッ・アサレMalik as-
Salehが1267年に王位に就いた。その後、かれの子孫が代々スルタン位に就いて16
世紀まで続いたが、1521年にマラッカからのポルトガル軍の侵攻に敗れて滅んだ。


一方、1496年に新興イスラム勢力がアチェに建国し、Ali Mughayat Syahがアチェダ
ルッサラム国の初代スルタンとなった。ポルトガルがマラッカを奪取してマラヤ半島から
スマトラ島東北部かけてのイスラム勢力討伐戦を進めていたころ、イスラム商船はマラッ
カ海峡をボイコットしてスマトラ西岸航路を取り、その地の利がアチェの国家建設に重要
な役割を果たした。富裕な強国となったアチェがスマトラ島北部の反ポルトガル戦争の立
役者として登場し、北部一帯の統一を推進して域内覇権を握った。パサイの地は1524
年にアチェが奪回して支配下に収めている。

アチェの建国に関して、ポルトガルの反イスラム戦争を受けて立つ側の中東イスラム帝国
がスマトラ北部の情勢を危惧してアチェダルッサラムの建国にからんだという話の中に、
アリ・ムガヤッ・シャはイスラム帝国が送り込んだ人物だったという説も飛び出した。つ
まりヌサンタラのプリブミではないということだ。

その結果アチェダルッサラムは外国人が興した国であり、ムラユ系人種の国でないという
説にまで飛躍して、アチェ人という種族を見る目に色眼鏡がかかるインドネシア人も出る
ようになった。するとその色眼鏡を外させるべく、1637年にスルタンになったイスカ
ンダル・タニはマラヤ半島パハンの出身であるので、それ以後はムラユ系の国になってい
るのだという修正論すら語られている。

そのような国家態勢の話でなく、一般住民の姿を目の当たりにするなら、アチェ州東北海
岸部の住民たちは、その肌の色から顔つきまでムラユ系種族とは思えないひとが多い。反
対にかつての宮廷がらみのエリート層だったひとびとはムラユ系の特徴をたっぷりと示し
ているというのも皮肉な話だ。


14〜17世紀に起こったインド人のヌサンタラへの来航の波は、西インドのグジャラー
トやパキスタンのイスラム商工者、あるいは南インド西岸マラバールのムスリム、が起こ
したものだというのが定説だ。そしてやってきたひとびとの中に定住する者が出た。パキ
スタン系のひとびとはヌサンタラでKoja人と呼ばれた。ジャカルタやスマランにあるプコ
ジャンは、コジャ人居留地区として設けられたものだ。

プコジャンが設けられたのは17世紀のVOCの時代であり、VOCが自領のバタヴィア
とスマランで人種別分離居住制度を行ったために生まれた。ところが実際にプコジャンは
コジャ人とアラブ人を一緒くたにする居住区になった。オランダ人にとってイスラム教徒
はモール人であり、実態がコジャであろうがアラブであろうが、同じモールだということ
だったのだろうか。[ 続く ]