「ワルン(10)」(2022年05月13日)

スラバヤの道端ワルンのそのありさまは、スラバヤが開かれた港湾都市だったために異文
化異人種の人間たちが繰り広げて来たコミュニティ生活の中に生じた伝統だとマラン国立
大学人類学者は説明している。

店主と客の間で交換される悪態は常に、カラッとした陽性の明るい雰囲気の中に包まれて
いる。人間はみんな対等で同等であり、本人が持っている属性が自動的にパトロン=クラ
イアント関係における立場を決定しない。

そんな社会に育てられた人間の使う言葉には裏がない。スラバヤ人の話す言葉はたいてい
シンプルで明確明瞭であり、持って回ったことを言わずにズバリとポイントを突き、多義
性や修辞を嫌う。「言語は民族性を表す」の格言通り、スラバヤ人の性格がそのようなも
のなのだと人類学者は述べている。


インドネシアのワルンがエガリタリアンのシンボルであるのは、ヌサンタラのどこでも同
じだ。スラバヤの道端ワルンは極端な例としても、社会ステータスが上位にあるからワル
ンの中で王様然とふるまうというのは通らない。店の姿勢が客を公平に扱うのは当然とし
て、客の間でも、飯を食いに来ている者やノンクロンしに来ている者の間に貴賎上下の差
別はないとしているから、店の外における自分の地位をかさに着て店内で他人に偉そうに
振舞ってもそっぽを向かれるだけだ。

祝宴の場は少しちがう。封建遺制のまだ強い地方では、社会的に権威を持つ賓客の来席を
祝宴主催者は名誉と考えるために、賓客には王様扱いがなされる。席の場所が違い、食器
のサイズが違い、供される料理が違い、世話のし方が違う。マカッサルでは、皿の下に敷
くマットが二枚重ね三枚重ねにされるという話もある。

マカッサルのパオテレ漁港に近いスリガラ通りにある食事ワルンのパッルバサスリガラは、
朝からパッルバサを食べに来る客で賑わう。食事時間帯に店内が満席になっても、一杯の
パッルバサをどうしても食べたいひとびとが店の外に並ぶ。狭い中庭が順番待ちの客でい
っぱいになり、さらに店外にあふれて駐車している車の隙間までもがひとで埋まる。サフ
ァリジャケットを着てピカピカに磨いた靴を履いているからと言って、そんな順番待ちの
列を押しのけて中に入って行く者はいない。それが非常識であることを、誰もが知ってい
るのだ。


ブギス=マカッサル人もノンクロンが好きだ。ただしかれらのノンクロン場所は食事ワル
ンになる。朝食を家で食べたひとが、友人仲間と連れ立って10時ごろにワルンチョトに
入る。食事ワルンが社会交際のためのスポットになっている。一緒に食事をすることが交
友関係を親密にする原理は多分ユニバーサルなものなのだろう。

マカッサルの街中のあちらこちらにチョト・コンロ・ソップサウダラなどを供するワルン
がひしめいているのも、住民が時間を問わずノンクロンするためにそこへやってくるから
だ。マカッサル住民の食べながらノンクロンする風習がそれらのワルンの生存を保証して
いる。メダンにおけるワルコップの機能を、マカッサルではそれらが担っているというこ
とにちがいあるまい。

マカッサル市内では、それらの食事ワルンが一日24時間、どこかで必ず営業している。
食事時間はたいていある時間帯に集中するが、ノンクロンの欲求は時間を問わないのだ。
ひとびとは真夜中であっても、夜食を食べたり、コーヒーを飲みながらワルンでノンクロ
ンしているというのがマカッサルの風景だ。


マカッサルで知り合いになったブギス=マカッサル人を誘ってワルンチョトでノンクロン
し、かれの分も一緒に支払ってあげれば、かれはあなたをまるで兄弟のように思うだろう。
次回、かれに会ったとき、かれはきっとあなたを饗応しようと努めるはずだ。

中には自宅に招いて何種類もの焼き魚を作ったり、カニを茹でたりして饗してくれるひと
もいる。そして自宅に泊るように懇請し、翌日は人気のあるワルンのハシゴに連れて行っ
てくれる。[ 続く ]