「レシピ本の歴史(3)」(2022年05月20日)

やはりかれが手掛けた女性向け新聞Poetri Hindiaでは、編集員のひとりに料理専門家が
起用された。その女性ラデンアユ・ティルト・アディ・ウィノトRA Tirto Adhi Winotoは
ティルト・アディ・スルヨの妻の姉であり、かの女は植民地行政機構が開催した手工芸品
と料理の展覧会で腕前を披露して審査員から優秀賞を獲得した経験を持っている。


1940年にユニークな現象が起こった。Memboeat Makanan Jang Tahan Lamaという、長
持ちする食べ物の作り方のアイデアを教える書物の登場は、メインストリームの傍らに開
いていたニッチな空間を埋めるものだったにちがいあるまい。また別に、北スマトラのメ
ダンの主婦の集まりが出した地元料理レシピ集Recepten van Produkten van Eigen Bodem
もあった。その著者はVereeniging van Huisvrouwen te Medanと記されている。

しかし1940年代は不毛な十年になってしまった。日本軍政が始まり、それに続くイン
ドネシア共和国独立闘争という革命時代の中で、ひとびとはいかにして食材を手に入れる
かに精魂を傾け、飢えと闘ってその食材を腹に収めることに意識を集中していたにちがい
あるまい。生命維持本能が美食への欲求を抑えつけていた時代だったのではないだろうか。


1949年にメダン在住の女性ヌルシア・サユルRangkajo S Nursia Sajurがレシピ本の
舞台に登場した。かの女の著作になるレシピ本にはTheorie dan Praktijk Dalam Hal 
Masak-Masakan, ABC, Warna Warni Taart Potong, Peladjaran Masakan Kue-kueなどがあ
る。

ヌルシアは料理専門家であり、料理教室での指導と書籍著作を通して、1950年代の著
名人のひとりになった。かの女の名前は北スマトラばかりか、ジャワやスラウェシでも有
名だった。ヌルシアのレシピ集は当時のヌサンタラの各地にできた料理教室で教科書とし
て使われた。

ヌルシアはまた、ヌルシア・サユル学院を作って料理作りに関連する教育を一般女性やジ
ャーナリストに与えた。かの女は当時のメダンで著名市民のひとりになり、さまざまなフ
ォーラムやラジオでの講演をもこなした。


平和が戻って来た1950年代に、美味しい食事への欲求が解放された。上述のヌルシア
の著書を含めて、インドネシア語で書かれたレシピ集が社会に出回るようになったのであ
る。中でも、たくさんの家庭の台所で常備本になったトゥルシナ(原題はBuku Masakan 
Thursina)は、食の世界のフィノメナのひとつになった。シティ・ムッミンSiti Mukmin
著のこのレシピ集は50年代初期に初版が出され、1981年の第21刷まで増刷が続い
た。この著は繰り返された増刷の途中でダニアル・ヤティムDhaniar Jatimが内容の改訂
と増補に協力した。1954年には政府教育文化省が推薦図書に取り上げている。


1957年にKinta Jakartaが出版したPandai Memasakは1966年に第十一刷に達した。
一度絶版になっていたこの書籍は2000年代になって再発行されたことがある。この書
は雑誌Star WeeklyのRahasia Dapur欄に掲載されたレシピを集大成したものだ。Nyonya 
Rumahの名前でその雑誌にレシピを書いていたのはバンドンに住んでレストランを営んで
いた女性ユリ・スタルヤナJulie Sutarjanaだった。

1950年代に入ってからメディア界に登場したかの女は、Star Weekly誌の他にもDjaja
誌のSeni Dapurコラムを持って活躍した。その後も、コンパス紙のコラムDapur Kitaで健
筆を振るっている。

ニョニャルマは登場した初期から人気を博し、たくさんの家庭で主婦たちがかの女のレシ
ピを参考にした。その評判がスターウイークリーを発行しているPT Kintaにレシピ集の出
版を決意させた。Pandai Memasakは1957年5月に出版されて好調な売れ行きを示し、
たくさんの読者の要請に応えて1965年3月にその続編Pandai Masakが出版された。
[ 続く ]