「黄家の人々(1)」(2022年05月25日)

1788年に中国の福建省で、貧しい床屋の息子として生まれたOey Seは、1810年ご
ろ中部ジャワのPekalonganに移り住んだ。

オランダ領東インドで行われていたアルファベット文字表記はオランダ式のものであり、
現代インドネシア語のuはoeと綴られた。Soekarnoという人名がそのように綴られてスカ
ルノと発音されていたように、あるいはBandoengという地名がバンドゥンと発音されてい
たように、Oeyの発音は[ui]あるいは[wi]になる。

ちなみに黄姓は、マンダリン語文化でHuang、広東語文化でWong、福建・潮州語文化でNg
と発音される。ウイは福建語文化でしばしばWee, Oei, Ooiとも綴られる。Seはひょっと
したら本人名によく使われる世の漢字が使われたのかもしれないが、当て推量で書くのは
やめてカタカナで書くことにする。


ウイ・セはプカロガンのPecinanに住む黄一族を頼ってやってきた。まるで見知らぬ人間
でも、同じ姓を持っていれば助け合うのが華人の習慣である。居候させてもらう代わりに、
その家のひとびとのために骨身惜しまず働くのが人間としてあるべき姿だ。若いウイ・セ
は毎日元気よく働いた。

ウイ・セは頭脳明晰で性格にも福々しい長者の風があり、人当たりが柔らかく、また人に
よくなついたために、だんだんとみんなから好かれるようになった。家の主人はプリブミ
の村々を回って日用雑貨品を販売していたからその仕事を手伝うようになり、頻繁に村々
を回っているうちに、最初はまったくおぼつかなかったプリブミの言葉も急速に上達して
いった。

ウイ・セの性格の良さが村々のプリブミ住民にも好評で、どこの家でもみんながニコニコ
しながらウイ・セの商品を買ってくれた。大きな売上になるはずもなかったとはいえ、商
売については繁盛していたと言えるだろう。


数年を経て小金の貯えもできたころ、世話するひとがあってperanakanの娘を妻にした。
プチナンは華人居住地区、プラナカンとは外来人と地元人種の間に生まれた混血者とその
子孫を指す。ウイ・セはその生涯にひとりの娘と三人の息子を持った。娘はKim Nio、息
子はHolland、Tamba、Makauと名付けられた。Kim Nioは金娘もしくは錦娘と書いたのでは
ないかと思われるが、息子たちの名前がどんな漢字で書かれたのか皆目見当がつかないか
ら、すべてカタカナで表記することにする。

プラナカンの最初の妻は娘とふたりの息子を生み、ずっと後に二番目の妻にした若いマカ
オ娘が三番目の息子を生んだ。後になって一家はバタヴィアに引っ越すが、子供たちは全
員プカロガンで生まれている。


中国大陸からのたいていの華人移住者がそうするように、ウイ・セも物売商売で生計の糧
を得ることから始め、商売がかれの一生を形成した。ウイ・セのプカロガンでの暮らしは
一応妻子を不自由なく養える程度のものになったものの、豪邸を持って使用人にかしずか
れる大班暮らしは夢のまた夢で、ともかくコツコツと毎日を生きることが座右の銘になっ
ていた。

ジャワでの生活にも十分慣れて、ジャワ語も不自由なく話せるようになったかれは、初対
面のジャワ人からでさえ新客華人と見られないほどの溶け込みようを身に付けていた。た
いていのプリブミはかれを華人プラナカンと見るのが普通だった。

あるときかれは、商売物のコーヒーを仕入れるためにプカロガンからウォノソボへ向かっ
て徒歩のひとり旅に出た。1903年に出版されたティオ・チンブンThio Tjin Boenの著
作「ウイ・セ物語Tjerita Oey Se」はその道中シーンから始まる。[ 続く ]