「インド味の波(終)」(2022年05月25日)

ムガル文化はスマトラの諸地方に深く浸透した。特にムラユ系の諸スルタン国やミナンカ
バウがそうだ。それらの地方の伝統的郷土料理の中にある、スパイスを多用する料理は、
ムガルの影響が濃いように思われる。それらの諸地方にムガルの影響が入ったのも、アチ
ェのスルタンイスカンダルムダが進めた南進政策によってスマトラ島の北半分がアチェの
支配下に落ちた結果ではあるまいか。

アチェの南進政策はムラユ地方やミナンカバウの豊かな米をはじめとする貿易用の物資を
手中に握るのが大目的のひとつだった。バタッ人の文化にムガルの影響があまり浸透しな
かったのは、アチェがタパヌリ地方を重要視せず、そこを征服して強い支配を及ぼそうと
しなかったことに関わっている。


昨今、世界各地でインド料理の典型的な特徴に位置付けられているものはたいてい、ムガ
ルの食に由来するものだ。現代世界でインド料理として売られているもののほとんどはム
ガルにその根を求めることができるとさえ語るひともいる。

タイのプーケットにあるインド料理レストランで食事したとき、記者はその説を確信した。
その店が供する料理はMughal Mahalであるという解説がなされていたのだ。つまりムガル
王宮の料理だと述べているのだ。

このムガルの食の影響を考えるに当たって、インドネシアのわれわれは特に注意深さを必
要とされている。というのも、ムガルの影響がアチェ経由で広まる以前に、インドネシア
にペルシャの影響が直接入ってきていたからだ。

たとえばパサイスルタン国の時代、イブヌ・バトゥタが西暦1325年にサムドラパサイ
でペルシャ人商人と出会ったと旅行記に書き残したように、さまざまな記録がペルシャ人
の来航について触れているのだ。パサイスルタン国もペルシャ商人との交易を盛んに行っ
ていたことが明らかにされている。16世紀のポルトガル人旅行家トメ・ピレスの著述に
も、そのような内容が記されている。

つまり、アチェスルタン国がヌサンタラに広めたムガル文化の中に含まれていたペルシャ
的要素とそれよりもっと前にペルシャ人がもたらしたペルシャ文化の要素が混同されない
ように、われわれは心すべきなのである。

< ヌサンタラの食 >
上で述べたような事実と推論を踏まえて、インド料理は少なくとも二度の異なる波に乗っ
てヌサンタラの食の世界に影響をもたらしたと言えよう。最初の波はヒンドゥ文化の中の
要素として到来し、その影響はジャワをメインにして残された。次の波はムガルスルタン
国からのインドイスラム文化の中の要素としてヌサンタラにやってきた。後者の波は主に
スマトラ島北半分に影響を残した。

ただし、ここまで書いてきた内容は、ヌサンタラにやってきて訪れた先の社会で影響を振
るったインド側の視点から物事を見ているのである。この種の物の見方は影響を受け入れ
た側の立場を受動性一辺倒のものにしがちだ。だが人間の交流は相互に相手から何かを得
る一種の交換の様相を持つのが普通ではあるまいか。

だとすれば、インド人もヌサンタラから何かを得たにちがいあるまい。インド料理史専門
家のATアチャヤ氏はその例のひとつがインドでidliと呼ばれる菓子であることを指摘し
た。インドでイドゥリは南インド発祥の菓子であるとされてきたが、それがヌサンタラ古
来のクエアプムkue apemであることが明らかにされた。

ヌサンタラのとある王が妻にする女性を求めてインドに赴いた。そのときの随行団がイン
ドでクエアプムを作って食べていたのをインド人が習い覚え、イドゥリという名前が付け
られてインド各地に広がったのが史実だそうだ。[ 完 ]