「黄家の人々(3)」(2022年05月30日)

「冗談を言ってるんでしょう?こんな紙を買おうなんて。」
「いや、本気ですよ。」
「ああ、明日買いたいものがあったから、助かりますよ。」

やった、と思ったウイ・セは興奮して身体がふるえた。ウイ・セはムルトに枚数を数えさ
せた上、壁に貼ったものや凧まで全部買い取った。ムルトは数勘定もおぼつかなかったか
ら、ウイ・セが一緒になって数えなければならなかった。枚数はなんと1千数百枚に達し、
額面金額は5百万フローリンに上った。かれは一枚1ドゥイッの約束に従って14フロー
リンをムルトに渡した。ムルトの一家は大喜びだ。ウイ・セのほうは、心臓は興奮で早鐘
を打ち、冷や汗が流れた。早くこの家から出て行きたいという焦燥のために消化不良を起
こすようなことはウイ・セに起こらなかっただろうか?

フローリンFlorinという貨幣単位は12世紀にイタリアのフローレンスで作られた銀貨に
由来していて、オランダではこの言葉がフルデンGuldenと同義語として使われた。原著者
は更にルピアまで取り混ぜて使っている。もちろん1ルピアRupiah=1フルデンだ。本著
でも同じことが起こるだろうが、同義語としてお読みください。


貧しい田舎者のムルトは、そのころはじめて世の中に出てきた紙幣を知らなかった。オラ
ンダ東インド植民地政庁が最初に出した紙幣(金券)は債券として作られ、1815年の
年号が付けられて印刷された。金種は1フルデンに始まり、5,10,25,50,10
0,300,600,1000フルデンの9種類が出された。大きさは12〜13cmX
8〜12cmで持ち運びにも不便がない。それは政府の債券だったから、財産のない一般
庶民にはまず縁のないものだったことも確かだ。

いわゆる紙幣と呼びうる概念に該当する最初のジャワ銀行券は1827年の年号が付けら
れて、券面は小切手の形式で世に出た。金種は25,50,100,200,300,5
00,1000フルデンであり、サイズは18〜19センチX10〜11センチで、少し
大きめになっていた。

一般庶民の生活はコインがあれば何ら困らなかった時代だ。コインの最高額が2.5フル
デンになっているのだから、庶民が一時に数十フルデンもの金額を支出することなどほと
んど起こらない。そんな時代に紙幣は庶民生活に無縁のものだったにちがいあるまい。だ
が商売人は違う。金回りの規模が一般庶民と同じであるはずがないのだから。

ウイ・セの凧事件が西暦何年の話なのかよく分からないのだが、黄家の子孫に伝わってい
る話ではsurat hutang Belandaと語られているので、1815年発行の債券のようにわた
しには思われる。


自分の金銭知識の中に存在しない紙幣をなぜムルトはそれほど大量に持っていたのだろう
か?ウイ・セに一夜の宿をこころよく提供したからといって、ムルトを善人と解釈しては
いけない。悪人は普段から善人の顔をして、われわれの間に混じっているのだ。そう言う
わたしも、あるいはあなたも、そのひとりかもしれない。

ウイ・セが通って来たこの集落横の道を、しばらく前のある日、ひとりのオランダ人が通
りかかった。オランダ人はひとりのプリブミに木の箱を二つ運ばせていたのだが、そのプ
リブミが急に腹痛を起こして随行できなくなった。オランダ人はその集落で替わりの人間
を探し、ムルトがその仕事を得た。

オランダ人が前に立ち、ムルトは木箱を担いで後ろに従う。人間の住む集落のまったく途
切れた山沿いの道で、オランダ人の荷物をわが物にできるチャンスが来たことをムルトの
頭脳がかれに知らせた。なぜなら、大金持ちのオランダ人はこの箱の中に金銭をたくさん
入れているに決まっているからだ。

かれはそっと木箱を地面に置き、腰の鉈を引き抜くと、忍び足でオランダ人の背中に近付
いた。よく研がれた鉈をオランダ人の首の位置に据えてから、「Ndoro!」と声をかけた。
ジャワ語のンドロは高貴な人間あるいは自分が仕える主人を呼ぶ尊称だ。[ 続く ]