「黄家の人々(4)」(2022年05月31日)

振り向いたオランダ人の喉を鋭い鉈の刃が斬り裂いた。「神よ!」と叫んでオランダ人は
地面に倒れる。ムルトの目が燃えてきらめき、もう一度鉈に力を込めてオランダ人の頭部
を斬り落とした。ムルトはすぐに道から離れた場所に穴を掘ってオランダ人の死体を埋め、
木箱を担いでゆっくりと自宅に向かって歩き、夜が更けてから家に帰り着いた。

家に帰ると、妻に「静かにしろ」と言い、木箱の鍵をこじ開けた。そしてかれはへなへな
とその場に座り込んだのである。なぜなら、かれが脳裏に描いていた箱の中身とは大違い
のものがそこに入っていたのだから。かれが期待していたものはコインだった。ところが、
箱の中身は衣服と大量の紙きれであり、コインは銀貨銅貨が10フローリンと少々あった
だけだった。かれは腹を立てて、その紙きれを全部焼いてしまえと思ったが、陋屋の壁の
穴をふさぐのに手ごろだと思い直して、その紙きれを少しずつ使っていたのだ。それをウ
イ・セが買い取ったのである。もちろんそんな由来話を、ウイ・セは知るよしもない。


翌朝、ムルトの家ではみんなが目覚め、日々の日課が繰り広げられた。ムルトの妻はシン
コン芋を焼き、コーヒーを作って夫と客人に供した。ウイ・セはムルトに25セン銅貨を
与えて一夜の宿を謝し、握手してその家を出た。ムルトの家で手に入れた大量の紙を布に
包んで背にしばり、陋屋を出てからウォノソボへ向かう道までゆっくりと歩いた。ところ
がウイ・セはウオノソボへ行かずにやって来た方角に引き返して行ったのである。そりゃ
そうだ。一夜で大金持ちになったというのに、なんであくせくと商売のためにウオノソボ
まで歩くようなことをしなければならないのか。

人間を襲う野獣が徘徊し盗賊が惜しみなく他人の生命を奪うジャワの原野を汗水たらして
歩くよりは、家にいて使用人を使って仕事する方がはるかによい。だが、貧乏人が突然羽
振りがよくなると世間の妬視がやっかいであることをウイ・セは知っていた。ましてや出
所不明の大量の紙幣を公にすれば、どんな難題が降りかかって来るか知れたものではない。
かれは妻と相談して、紙幣凧の話は極秘にし、ゆっくりと商売を大きくして行くことを合
意した。

数日後、パサルの前の小さな店に一家は引っ越した。人通りの繁華なその場所で、さまざ
まな商品を売るウイ・セの店は大いに繁盛し、プカロガン住民の間で名が売れ始めた。ウ
イ・セから商品を仕入れる店も現れはじめ、ウイ・セの店はどんどんと拡張されて大商店
になり、シンガポールに会社を置いて商店を開くまで巨大化した。

また土地建物を買って借地借家を多数持ち、そのうちに西洋風の豪邸を建てて一家はそこ
に住むようになった。その邸宅を建てるのに20万フローリンは下らなかったはずだとい
う噂も広まった。ウイ・セはプカロガンの実業界で新星と評されて著名人になり、政財界
の要人に交際が広がって行った。それらの拡張発展は時間をかけてゆっくりと行われたの
である。


ウイ・セの店は早朝に開く。するとほどなく、近郊の集落部落から百人くらいのプリブミ
がジャガイモや他の芋類あるいは豆類などの農産物を持ってやってくる。ひとびとは倉庫
に入って荷を置き、店の者に買値を決めてもらい、その書付をもって出納係から支払いを
受けるのだ。

倉庫の中は大勢の人間の賑わいがこもって実に騒々しい。その喧噪の中を、持ち込まれた
農産物の重さを大きい秤で計る使用人の怒鳴り声が突き抜ける。lakcap gow pekcap ji!
ウイ・セは倉庫の壁際の机に帳面を置き、その声を帳面に書き移す。それがその日の仕入
れ台帳になるのだ。そんな倉庫の喧噪は、太陽がだいぶ高くなってから終わる。カンプン
の住民たちが帰ったあとは、農産物を詰める袋を作ったり、倉庫内を整頓したりする数人
の労働者の姿があるばかり。

ウイ・セはそれらの農産物をシンガポールに送って販売している。船積みされる貨物の中
に大量のコーヒー豆が混じっているのだが、書類にはコーヒーのコの字も書かれていない。
そのコーヒーがウイ・セの利益の主力なのである。[ 続く ]