「イ_アのエスペラント語(前)」(2022年05月30日)

エスペラント語の生みの親ザメンホフの著作Unua Libroがはじめて世に出されてからわず
か2カ月半後に、エスペラントという言葉がオランダ領東インドのスラバヤの新聞に登場
した。1887年10月13日付けSoerabaijasch Handelsblad紙に掲載された記事にそ
の紹介が見られる。20世紀初めには、蘭領東インドにエスペランティストが輩出した。
難しくない中立的な国際語であるエスペラント語を使って国境の壁を超越することをかれ
らは夢見たのである。

この島嶼地域におけるエスペラント語の先駆者はオランダ人やイギリス人などのヨーロッ
パ人だった。かれらは東インドに仕事を求めてやってきた工場技術者・行政官・教師・船
乗りなどだ。1902年に先頭を切ったのは、プロボリンゴのカンダンジャティサトウキ
ビ農園の工場技術者L カイデルであり、続いて1903年にスラバヤ在住のG ファンデ
ル・ ノールダがその後を追った。かれらはエスペラント語を世の中に普及させる民間団
体の一員だった。

それからしばらくして、蘭領東インドUEA(ユニバーサルエスペラント協会)レップの椅
子にルパート・フォークランド・ヴォーンが着任した。1909年から16年まで、ヴォ
ーンはスラウェシのUEAで活動し、1913年に赴任して来たアルバート・クネフツに
その座を譲って1916年にマラヤ半島に移った。

クネフツはスラウェシに赴任する前、スラバヤ郵便局の職員を経たあと東ジャワのバニュ
ワギに移ってコーヒー農園で働いていた。1925年まで東インドUEA代表者を務めた
かれは、1911年と1920年のエスペラント世界コングレスに東インド代表者として
出席している。その時代、東インドのエスペランティストはまだまだ数が少なく、しかも
あちこちの地方に散らばっていた。


エスペランティストとして東インド地元民の名前が登場するのは1920年代に入ってか
らだ。スマラン住民のリム・チョンヒーとコー・ユッシャンがそれで、かれらは華人系プ
ラナカンだった。コーは自分の兄弟が日本から持ち帰って来た書物を使って、独学でエス
ペラント語をマスターした。社会のエスペラント語に対する興味は年々高まり、エスペラ
ンティストを自負するひとびとが塾を開き、さまざまな言語でエスペラント語に関する論
説を書き、あるいは書籍を出版した。UEAのレップは1920年にふたりしかいなかっ
たが、1934年には19人まで増加した。

1922年、東インドエスペランティスト会が発足した。会員の大半はオランダ系プラナ
カンで、あとはほとんどがジャワの現地人だった。1923年にはマナドでリホルド・ヴ
ィレム・フランス・ケフテンベルツ牧師が女性を対象にするエスペラントクラブを作った。
ヨーロッパ系と華人系ばかりでなく、プリブミ女性もたくさん集まった。しかしその年末
に発起人の牧師はオランダに帰国してしまった。

一方、その年に中部ジャワのクラテンでは地元民のカムソ・ウィルジョサッソノがムラユ
語の雑誌India Esperantistoを発行して学習者に役立つ記事を掲載した。またPW ファ
ンデン・ブルックがムラユ語で書いたGrammar Esperantoも出版されている。リム・チョ
ンヒーはジャワに関する書籍をエスペラント語で書いて出版した。Javaj legendoj kaj 
fabloj(ジャワの伝説と物語)がそのタイトルだった。

Heroldo Esperantoの1925年5月号に、ブロトミジョヨが東インド全土から30人ほ
どのエスペランティストを動員してエスペラント語普及を行った話が物語られている。そ
の中には各地のUEAレップも含まれていた。ヨグヤカルタのラデンマルディオ、スムヌ
ップのスチプト、パダンのラサッたちだ。

その年の6月にブロトミジョヨはクラテンで10人にエスペラント語を教え始め、生徒は
そのうちに15人に増えた。その年の末、エスペラント教師ジョージ・リオポルド・ブロ
ットはヨグヤカルタで30人の青年を集めて、無料レッスンを開始した。


東インドのエスペラント語普及はだんだんと力強さを増し、広範囲に広がって行った。1
925年以来、東インドのエスペランティストたちは国際的なエスペラント語誌に投稿す
るようになった。ウィルジョサッソノがジャワの結婚衣装について書いたものや、リム・
チョンヒーがムラユ語について書いたものなどがその中に見られる。[ 続く ]