「イ_アのエスペラント語(後)」(2022年05月31日)

1926年から第二次世界大戦が始まるまで、東インドでエスペラント語はオランダ系や
プリブミの間で発展を続けた。しかし戦争がそれをストップした。

1948年10月、オランダのエスペラント語国内団体事務局が東インドの有力活動家た
ちの住所宛に手紙を送ったが、返事はひとつも来なかった。インドネシアのエスペラント
語活動がどうなっているのかは、何もわからなかった。

1950年になって、エスペラント語機関誌Laborista EsperantistoとSennaciuloがイン
ドネシアエスペランティスト協会の設立を発表した。ジャカルタにその本部が置かれた。
住所は書かれていたが、発起人や主宰者の名前が書かれておらず、関係した人物がだれだ
ったのか分からない。多分オランダ人だったから、政治状況に鑑みて名前を伏せたのでは
ないかと推測されている。


政治家で人権活動家であり、またジャーナリストでもあるランカヨ・ハイラン・シャムス
・ダトゥ・トゥムングンは1950年からインドネシア国内でエスペラント語を学び始め、
翌年にはもうドイツのミュンヘンで開かれた世界エスペラントコングレスに出席した。

国内でのかれのエスペラント語普及活動は積極さで目を見張るものがあり、1952年に
はインドネシアユニバーサルエスペラント協会を発足させた。後にそれはエスペラント語
でIndonezia Esperanto-Asocioと通称された。この団体はかれの指導の下に、1960年
4月にジャカルタで第一回全国会議を開催している。IEAは全国の諸都市でエスペラン
ト語塾を開いた。

更に国際活動の舞台でダトゥ・トゥムングンはSudazia Esperanto-Federacio(南アジアエ
スペラント連盟)を設立し、自らがそれを指揮するとともに各国本部に多くのインドネシ
ア人を送り込んだ。

そのころ、インドネシアのエスペランティスト界は活発に書物や辞書を世に送った。19
52年にプラムジャはエスペラント語教本を書き、ハサン・バスリは諸大陸言語教本を出
版した。インドネシア語で書かれたエスペラント語に関する書籍は続々と出版され、19
58年にはヨグヤカルタで子供向け雑誌KawankuやMeladipriに簡単なエスペラント語のレ
ッスンが掲載されるまでになる。メダンではSin Min紙にエスペラント語の付録ページが
付いた。

インドネシアにおけるエスペラント語のピークは1960年4月1〜3日に開かれたイン
ドネシアエスペラント協会全国会議だろう。それを境に、国内政治状況の悪化に引きずら
れて活動は下降傾向に入り、1965年のダトゥ・トゥムングンの死によって一気に落ち
込んだ。

インドネシアのエスペランティストの多くは華人系のひとびとだった。G30S事件後の
アカ狩りが華人系を十把ひとからげで標的にし、しかも闇から闇に葬り去る方法が全国的
に行われたため、その被害者になったり、あるいは世間や行政に睨まれて共産主義者の烙
印を捺されることを怖れ、かれらは社会から姿を隠した。


エスペラントの名が再び世に出現したのは1990年のことで、Indonezia Esperanto-
societoがスマランに発足した。しかし指導者だったフランシス・ユリが2007年に死
去したため続かなくなった。

2010年10月3日、インドネシアエスペラントクラブがジャカルタに発足し、この組
織は2013年4月5〜8日にボゴールでエスペラントコングレスを開催した。


上述の通り、インドネシアにおけるエスペラントの長い歴史はエスペラント語発展の歴史
の中でたいへんな重みを持っている。国際社会でのエスペラント語発展史はインドネシア
の名前なくして語ることができないだろう。

往時の勢いが衰えたとはいえ、インドネシア社会にエスペラント語はまだ生き残っている。
「ジャカルタのクラブ会員は40人ほどです。エスペラント語は実に学ぶのが容易であり、
すぐに使えるようになります。エスペラント語が使えると、世界中のエスペランティスト
との意思疎通が簡単に行えるのですから。」ジャカルタのエスペラントクラブ総裁はそう
語っている。[ 完 ]