「ヌサンタラのお粥(2)」(2022年06月03日)

つまりブブルというのはそういう状態になっている物を指す言葉であり、イ_ア語日語辞
典で粥という言葉に対応させられているものの、日本語で粥はもっぱら食べ物を指し、食
べ物でないものについては粥と呼ばず「粥状の」という言葉で形容するのが常道と思われ
るため、インドネシア語でブブルは食べ物でない物も含んでいるという点に完全対応して
いない印象を受ける。辞書の語義に導かれてブブル=粥=食べ物という連想を持ってしま
うと行き違いが起こるかもしれないから気を付けた方が良さそうだ。


食の世界では、ブブルは食材をとても軟らかくなるまで煮る方法で作られる。単にブブル
とだけ言う場合は米のブブルが普通で、まず水を沸騰させてから、洗った米を入れ、もう
一度沸騰して米が軟らかくなるまで煮たものを意味する。脂気が欲しい場合はココナツミ
ルクやヤシの果肉フレークを混ぜて好みの濃さ薄さにする。

イ_ア語ウィキにはBubur kanji, bubur beras, bubur nasi atau kadang hanya disebut 
bubur adalah sejenis hidangan bubur yang dibuat dari beras yang dimasak dengan 
sejumlah air yang cukup banyak.という説明文が登場する。それに続いて、それはアジ
アの諸国で米飯の代替品として好まれている食べ物だという説明になっている。

ブブルカンジはまるで二重語のようだ。好意的に解釈すれば、多義性を持つカンジの語を
それ自体が多義的であるというのに世間一般で食べ物の粥と認識されているブブルという
語で限定させていると見ることもできる。だが、カンジがタピオカ粉という理解の下にあ
っては、ブブルブラスやブブルナシと同義語になるはずがあるまい。

イ_ア語インターネットを調べても、bubur kanjiの語はカンジルンビというアチェ料理
レシピを指して使われており、米粥の一般名称という用法にはお目にかからない。アチェ
のカンジルンビ粥は、ラマダン月のブカプアサのための食べ物として現在も一般的に作ら
れ食されている。長時間断食したあとに粥を食べるのは、人間の消化機能への労りを示す
ものだろう。

何百年も昔にタミル人がアチェに持ち込んだと思われるその習慣がアチェ人のイスラム共
同体生活における断食の慣習の中に溶け込み、断食の慣習が継続されることによってその
食べ物も生き永らえ、カンジという言葉がタミル語の本来的な意味で使われ続けていると
いう姿をわれわれはそこに見出すのである。


日本の粥は、雑炊・おじや・重湯などのバリエーションを持っている。雑炊はきっと、後
ほど紹介するブブルマナド的なものだろう。おじやは水分を過剰に使った米飯、つまり飯
に近いものという印象だ。重湯は飯を湯に半溶解させたもので飯からはるかに遠いものと
感じられる。

インドネシア語では重湯もブブルと呼ばれる。しかしその液体部分をtajinと呼ぶことも
ある。タジンは米を炊く時にできる濃い液体と定義付けられているので、ブブルの液体部
分をタジンと呼ぶのは正確だろうが、病人はタジンを食べろと言われて出された薄い粥に
は溶けかかった米粒もたくさん含まれていて、液体だけをすくおうとしてもどうしても米
粒がスプーンに紛れ込んで来る。それで結局、タジンを食べる話はブブルを食べることに
なってしまい、現実生活がなかなか言葉通りにならない実例をわれわれは体験することに
なるのである。とどのつまりは、インドネシア語では、雑炊・おじや・重湯はすべからく
ブブルと呼んで構わないようだ。[ 続く ]