「ヌサンタラのお粥(4)」(2022年06月07日)

バンドンもブブルアヤムにかけては名が知られている。bubur ayam Bandungは粥が濃くて
よく粘っており、ブブルを入れた皿を逆さまにしてもブブルが下に落ちない。トッピング
は鶏肉・セロリ・ネギ葉・チャクウェ・バワンゴレン・クルプッになる。

ブブルアヤムバンドンはまず米を水で炊いて粥を作る。そのとき、サラム葉と塩が加えら
れる。食べるときは、この濃い粥にココナツミルク・水・コブミカン葉・サラム葉・スレ
ー・ナンキョウ・植物油で作った汁がかけられる。

首都ジャカルタの朝はブブルアヤムの屋台と共に明ける。住宅地区を巡回するグロバッも
あれば、定位置に場を占めて客を招き寄せるカキリマ屋台もあって、その数は数千台にの
ぼると言われている。ブブルアヤム売りの多くは西ジャワ州スカブミ・タシッマラヤ・チ
ルボン、中部ジャワ州ブルブス・プマラン、ヨグヤカルタ州グヌンキドゥルなどから上京
して来た者が多い。


南ジャカルタ市プルマタヒジャウ商店街の一画でブブルアヤム食堂を営んでいるスロさん
はブブルアヤム売り成功者のひとりだ。ヨグヤカルタ州グヌンキドゥル県スルンブ村で高
校を終えたかれは、食っていくために1985年に上京した。家を出たときの手持ちの金
は1万3千ルピア。そのうちの6千5百ルピアがジャカルタまでのバス代に消えた。ジャ
カルタには伯父がいて、ブブルアヤム商売を行っている。

ジャカルタでかれはさまざまな仕事をした。肉体労働・オフィスボーイ・レストランのウ
エイター・警備員・・・だが、自分に向いている仕事にめぐり会わない。ジャカルタ生活
も一年を経過し、かれは伯父の手伝いをした。グロバッを押してブブルアヤムの巡回販売
をする。どうやらその仕事が自分に向いているような気がしてきた。独立してこの商売を
やってみたい、とかれは伯父に申し出た。

グロバッは5カ月の分割払いで購入し、その他必要な物一切をそろえると、かれはプルマ
タヒジャウ地区でグロバッを押しながら巡回販売を始めた。しばらくして地の利が呑み込
めたところで、プルマタヒジャウのオジェッ溜りに腰を据えた。ある日、プルマタスーパ
ーのマネージャーがかれの所へ来て、スーパーの駐車場で商売しないかと誘った。スーパ
ー側にとっては従業員の昼食が確保でき、しかも従業員の休憩時間に余裕ができるために
休憩後の勤務開始が安定する。おまけにスロさんから地代を徴収できるのだから、たいへ
んなメリットだ。一方のスロさんにとってもその話は成功への飛躍の第一歩になった。

スロさんがグロバッに書いた屋号「ブブルアヤムプルマタ」の知名度が上昇した。プルマ
タスーパーに車でやって来る客は、都内のあちこちに住んでいる。やって来る客や運転手
はみんな車の中でブブルを食べた。

スロさんはブブルアヤムに使う醤油や甘醤油にまで、気を配っている。かれは中華食堂で
働いたこともあり、醤油の使い方のこつをそこで覚えた。しかも醤油はメダンで作られて
いるものをわざわざ取り寄せている。ありあわせの醤油を使うと、客から苦情が出るそう
だ。甘醤油も、最高品質のものを使っている。

ブブルアヤム商売を始めてから10年後にかれは自分の家を持ち、その翌年には自動車を
購入した。たいていの成功者が採るパターンがそれだ。そして20年以上続けた駐車場で
のグロバッ方式は、次のステップへと進んで行った。

2010年にかれはプルマタヒジャウ商店街の中に食堂を開いて、ランクアップを果たし
たのだ。家賃は駐車場の地代の数倍になったが、商売の規模も大きく伸びた。かれのブブ
ルアヤムプルマタ食堂は午前6時から21時まで営業している。


特徴的なブブルアヤムバンドンの発明者マンオヨは西ジャワ州マジャレンカの生まれだ。
ふるさとを後にして大都会のバンドンへ出て来たオヨ・サルヨ少年はそのとき13歳だっ
た。最初にはじめた仕事は荷車を引いて灯油を売る巡回販売だった。それからbubur lemu
の巡回販売に移り、25歳のときにブブルアヤム売りになった。そのときのブブルアヤム
は全国のどこにでもある、タジンがたっぷり含まれている粥だった。[ 続く ]