「ヌサンタラのお粥(6)」(2022年06月09日)

ジャカルタのコタ地区にはブブルアヤムのたいへんな老舗がある。1950年代にチン・
サウスー氏がコタのハヤムルッ通りにグルバッ屋台を置いた。夜間営業で、夜から翌朝ま
で営業した。輸入自動車と自転車の販売店Olimoに近い場所だったのでブブルオリモと呼
ばれたが、後にブブルホステスがニックネームになった。その名称は時代の移り変わりを
端的に示すものだ。

1960年代後半から70年代半ばまでのアリ・サディキン都知事が首都ジャカルタの経
済活性化を強力に推進した時期に、ジャカルタの夜はカジノやナイトクラブなどの煌々た
る灯りに満ち満ちて、金を持っている階層は毎晩のように金を費やしに外出した。

カジノはサリナデパートビル地下、PIXと通称されたグロドッのペタッスンビラン、ジ
ャカルタシアター、アンチョルのハイライビル、パサルスネン、と至るところに設けられ
た。他にもハイアライ、競馬、ドッグレース、スロットマシンなど多種多様な賭博が合法
化された。

それらの遊興施設は金持ち層に向けられたものであり、ジャカルタに夜の娯楽がなければ
かれらはマカオやマニラやシンガポールに行って金を使ってくるだけなのだから、ジャカ
ルタで金を使わせるためにはこの手にかぎる、というのがこの政策のホンネだった。


本質がそこにあるのだから、プリブミ一般市民はシャットアウトされた。プリブミ一般市
民はほとんどがムスリムであり、イスラム教で賭博はハラムにされている。ムスリムに破
戒を行わせるために用意されたものではないという論理がアリ・サディキン都知事の時に
は通用した。

賭博場にやってくるムスリムはその信仰心に問題があるのであり、そんなやわな信仰心は
もっと強固に鍛えられなければならないというのがアリ・サディキンの信念だったにちが
いあるまい。これは要するに、誘惑に?まれるかどうかは本人の問題だという人間観では
ないだろうか。

ところが都知事の交替が行われた途端、邪悪と破戒の元凶である賭博場はすべて閉鎖せよ
という宗教界の強い抗議のために、次の都知事は全賭博場を閉鎖してしまった。それ以来、
ジャカルタにカジノや他の賭博施設を設けるための許可が下りたことは一度もない。

人間が破戒の罪を犯すのはカジノのせいだという論理が都知事の交替と共に飛び出して来
たにちがいあるまい。人間が間違いや罪を犯すのは外在する誘惑要因が本人を誤らせるの
だから、できるだけそれらの悪の源泉からムスリムを遠ざけて保護し、可能なら悪の源泉
を滅ぼして罪から護ってやるというのがそこにあるコンセプトのようだ。

人間は弱い(弱くてかまわない)存在だから悪を犯すことができないようにしてやるのが
人間を善に導くための方法だというのがそこにある人間観だろう。「臭いものにはふた」
式の形式主義と、人間を過保護に扱ってマリオネット人形にしようとする方向性の過保護
主義の併存は、どうも人類の未来を象徴しているように思えてしかたない。


賭博場ばかりか、大勢のホステスを擁するナイトクラブも作られた。マジャパヒッ通りか
らガジャマダ・ハヤムルッ通りにかけては夜な夜な高級車がたくさん集まり、ナイトクラ
ブ前の通りは駐車した高級車で道路が半分以上ふさがれるありさまだった。ブルーオーシ
ャンやラテンクォーターの名前はヌサンタラの各地に鳴り響いたことだろう。

たくさんのグループバンドが生まれ、有名歌手たちの稼ぎ場が激増した。アリ・サディキ
ンの考えたジャカルタに金を落とさせることは、大いに成功したように思われる。それは
オリモ自動車販売店近くでブブルアヤム商売をしていたチン・サウスー氏にも及んだ。毎
日夜半にナイトクラブが閉店したあと、ホステスを連れた頭家が夜食を求めてブブルアヤ
ムを食べにやってきたのだ。誰言うとなく、そのグロバッの屋号がブブルホステスという
名称で呼ばれるようになった。[ 続く ]