「ヌサンタラのお粥(7)」(2022年06月10日) アリ・サディキンの時代が終わり、ジャカルタコタのドゥゲムに陰りが漂うようになって 来たころ、深夜にブブルアヤムを食べに来るホステスは見られなくなり、ホステスに替わ って夜鷹がやってきても、一度しみ込んだブブルホステスの愛称は永遠に残った。そして 今や、ブブルオリモの事業は三代目に受け継がれている。 21時から翌朝7時まで営業しているブブルオリモは、決して豪華なトッピングを載せて いるわけではない。それほど濃くない米粥はアヤムカンプンのブイヨンが足されていて、 美味さにはもちろん定評がある。そこに、セロリ・チャクウェ・アヤムカンプンが載る。 それでは賑わいが足りないという客には、オプションの冬菜・生鶏卵の黄身・ゆで卵・ピ ータンが用意されている。 因みにオリモという名称は、トランスジャカルタバスのバス停名称にもなっている。19 14年にMolenvliet Oost 121番地にオープンしたNV Olimoは自動車自転車とアクセサリ ーや部品を輸入販売したオランダ資本の店であり、バンドン・スラバヤ・メダンに支店を 置いた。 モーレンフリートオースト121番地は今のハヤムルッ通りとマンガブサール通りが出会 う三叉路の角地だ。あの時代に自動車を購入するひとびとはバタヴィアの大金持ちに決ま っていた。そういった持てる人々を客層とするオリモはハイソサエティのショーケースに なっていた。 オリモの輸入車販売はインドネシア共和国独立後も続けられたが、1970年代になって インドネシアの会社法に即したPT Olimoに変わたものの、オルバ期に始まった日系自動車 メーカー誘致によって市場競争力が落ち込み、ついには行き詰まってしまった。1990 年代にPTオリモの会社ビルは取り壊され、跡地に銀行ビルが建ってオリモの看板は姿を 消したとはいえ、その名は地名になって生き続けている。 [Bubur Betawi] ブブルアヤムのご当地版として地名の付いているものもあれば、ブブルアヤムでないブブ ルのローカル版として地名が付けられているものもある。たとえば、ブブルブタウィだ。 このブブルにアヤムは使われない。bubur aseの別名を持つこのブブルブタウィは元々ブ タウィトゥガBetawi Tengah(ブタウィコタ)人のメニューとして登場したものである。 ブタウィ人は昔からsedekah bumiの神事の際にこのブブルを作っていたそうだ。 簡単に言ってしまえば、ブブルアセはブブルとブタウィ名物料理semur dagingとasinan Betawiがスリーインワンになったものと思えばよい。アセはAsinan+SEmurの短縮語だと言 うひとがいる。 米粥はココナツミルクが加えられて作られる。その粥にスムルの汁と肉、さらにモヤシ・ 漬物白菜・酢漬けキュウリとニンジン・揚げピーナツが載せられる。時にはジャガイモ・ 豆腐・ゆで卵なども追加される。面白いのは、粥は冷たくなったものが器に入れられ、そ の上から熱々の汁をかけて供されることで、全部をかき混ぜて食べると豊かな味のバラエ ティと食べ物の温度差が口の中を満たす。アセはまたブタウィ語で「冷たい」を意味し、 冷たい粥を食べるのでブブルアセと呼ばれているという説もある。 [Bubur Manado] ご当地版ブブルとして必ず登場するのがブブルマナドだろう。地元ではtinutuanと呼ばれ ている。マナドという地名が付けられているとはいえ、ティヌトゥアンはミナハサ料理だ という説を語るひともいる。肉を使わないのが基本であり、たいていは魚をおかずにする ことが多い。肉を使わないのは、インドネシアの諸宗教でさまざまな肉が禁忌にされてい るためという話をするひともいる。[ 続く ]