「黄家の人々(23)」(2022年06月28日)

バタヴィアの華人社会でウイ・セをバックアップし、引き立ててくれた華人コミュニティ
総帥のマヨールチナ陳永元Tan Eng Goanは、父の在世中もときおりウイ・セ宅を訪問し、
タンバッシアとは互いに顔を見知っていた。ところが、タンバッシアはかれになつこうと
しなかった。

最初からそのマヨールを嫌い、マヨールがタンバッシアを自邸に呼んでも、一度もやって
来たことがない。亡くなった父親に代わってタンバッシアになにがしかの教導を与える必
要があると考えていたマヨールが仕方なくウイ・セ邸を訪れても、タンバッシアは毎回居
留守を使って家の中のどこかに隠れてしまう。

将来結婚したら父の後継者としてレッナンの役職に就かせようと考えていたマヨールも、
そんなタンバッシアに不快を覚えた。だが相手はまだ子供なのだ。成長するにつれて、人
間的な成熟が起こるはずだ。あれほどの父親だったのだから、たとえそれを小型にした人
間になったところで、並み以上の器になってしかるべきだろう。マヨールチナは辛抱強く
時が来るのを待った。


バタヴィアでカピタンチナ華人甲必丹制度が始まったのはバタヴィア創設と同時だった。
JPクーンがジャヤカルタを奪ってオランダ人の町を建設したとき、かれはバンテンで親
しくなったカンプンチナの頭領である蘇鳴崗(Souw Beng Kong)をバタヴィアに呼び寄せ、
バタヴィアの華人社会の総帥に就けた。ソウはバンテンのカピタンチナから横滑りして来
たバタヴィア初代のカピタンチナだ。

それ以来この制度は1945年のインドネシア共和国独立宣言のころまで続けられた。共
和国がこの異民族分離居住と自治の制度を否定し廃止したのは当たり前のことだ。分離居
住は実質上で既に骨抜きになっていたとはいえ、統一国家の中に人種的な違いをベースに
してコミュニティ集団の自治が許される余地など、この国の建国の父たちの頭の中に存在
するはずもなかった。そんな方針は統一国家インドネシア共和国に分裂を招く要素を温存
することにしかならないのだから。

バタヴィアでカピタン職が総帥だったのは1829年までで、カピタンの上にマヨールの
位階が設けられ、陳永元が1829年からマヨールとなってバタヴィアの華人コミュニテ
ィを統括した。その結果、マヨール、カピタン、レッナンという階層構造がコミュニティ
内の統率をきめ細かいものにして行った。これはやはり、コミュニティ内の戸数と人口の
増加に対処するために起こった変化だったように推測される。

ちなみに、オランダ人はMajoor, Kapitein, Luitenant der Chinesenと書き、華人は華人
瑪腰、甲必丹、雷珍蘭と書いた。華人はオランダ語を音写したわけだが、不思議なことに、
現代の中国語インターネットを調べると、Kapitan Cinaは華人甲必丹と書かれているにも
かかわらず、Mayor CinaとLetnan Cinaはどうしたことか、華僑少佐・華僑中尉という訳
語になっている。

明治時代に日本でヨーロッパ式軍制が開始される前に少佐等々の階級呼称名は漢字宇宙の
中に存在しなかったのだから、オランダ時代のインドネシア在住華人がそんな言葉を知っ
ていたはずがなく、オランダ語が音写されたのは当然の成り行きだっただろう。だからそ
のように軍隊階級名で直訳されると、歴史の中から投射されてくるイメージとの間の不和
が気になるため、わたしは使わないでおく。


そのマヨール制度の幕開けにトップの座に就いたタン・エンコアンをタンバッシアはどう
いうわけか、敵視したのである。なにしろ街中でマヨールと出くわすと、タンバッシアは
両手を腰に当てて胸をそらし、タバコの煙を口からパッパと吐くような態度を示して傲岸
な姿を見せていたのだ。[ 続く ]