「ヌサンタラのお粥(19)」(2022年06月28日)

この歌詞は完全なパントゥン形式であり、よくあるように第一連は単なる踏韻の遊びであ
るために言葉の意味を深く考える必要はないようだ。どうも第二と第三連に男と女の永遠
の問題という深淵なる意味が込められているような気がするのだが、わたしの頭ではなか
なかうまくまとまらない。奥底までお見通しなされた方はいらっしゃるだろうか?

ところでこの歌詞を読んだ限りでは、これが本当にブブルジャリジャリと関係があるのだ
ろうかという疑問を禁じ得なくなるのではあるまいか?それを疑い出せば、ブブルジャリ
ジャリがブタウィ料理であるという根拠がひとつ消えてしまうことになりそうだが、まさ
かそれだけでブタウィ料理でないと決めつけることもできるまい。

jaliという語はハトムギの実であることに間違いはない。それ以外の語義として、ブタウ
ィ語では「胸のすくように片付いている」という語義を持っている。「この問題はあいつ
が乗り出しゃあ、ジャリに終わるだろう」というような用法だ。

またアラブ語源のjaliは「意味が明白になった」「納得した」「意味が呑み込めた」とい
った語義を示す。歌詞の最後のjalilahはひょっとしたら、この語義が使われているのか
もしれない。こうして見ると、bubur jali-jaliとこの歌がいったいどのように結びつい
ているのか、どうにもわたしは途方に暮れてしまうのである。

[Jenang Garut]
このガルッは地名でなくて粥の素材の名称だ。ガルッが地名でないことを明示するために
jenang pati garutという表現がなされることもある。

ガルッという植物は日本語で葛ウコンと呼ばれている。ウコンのように根が食用にできる
のだが、ウコンのようにブンブに使われるのでなく、炭水化物摂取のためにイモのように
食される。ただし、ガルッはあくまでも主食である米の代用品としてしか使われず、農村
部では米の凶作時に備えてガルッを家の周りに植えていた。つまりガルッ芋は西ジャワ州
ガルッの特産品でなく、全国至るところに生えていたのである。その証拠に、各地方ごと
に個々の名称を持っている。

バタッ語 sagu bamban 
パレンバン語 sagu
ムラユ語 sagu belanda, sagu betawi, ubi sagu
ミナンカバウ語 sagu rarut 
スンダ語 patat sagu, larut 
ジャワ語 angkrik, garut, gaerut, irut, larut, rarut, jlarut, klarut, waerut 
マドゥラ語 arut, bilus, larut, laru, salarut 
バリ語 krarus, marus 
北スラウェシ arerut towang, tawang, labia walanta, pi walanda 
北マルク peda-peda, peda sula, huda sula, hula moa

そうは言っても、ガルッ芋が非常食として保護され、平常時にはだれも手を付けることが
なかったということでは決してないのだ。何か特徴をひとつ書くと、それ以外の書かれて
いないものを全否定して捉え、書かれたものだけがすべてであると考える人間が増えてい
るような気がするのだが、読者のご同意を得られるだろうか?これはやはりラベル思考の
繁茂と表裏一体をなしていることを証明するものであるようにわたしには思われる。

人間は個性を持ち、個人の自由を最優先し、決して金太郎飴になるような本質を持ってい
ないにもかかわらず、秩序・横並びの平等・同調などといった社会的方向付けの前で構成
員が自分の人間性を押し隠して生きることを善としている社会は、意図してかどうか分か
らないものの、ラベル思考が繁茂することを誘導しているように思えてしかたない。
[ 続く ]