「黄家の人々(27)」(2022年07月04日) 美しい娘たちの中でも、とりわけ歌が上手でまた踊りも巧みな者をタンバッシアは望んだ。 かれ自身がgambangを叩き、tehyanやsamhianを演奏したのだ。かれの楽器演奏もなかなか 堂に入ったものだった。かれはビンタンマスにやって来た美しい娘たちとそのようなこと もして遊んだ。 ガンバンはもともとガムラン楽団に使われる楽器のひとつだった。いわゆる鍵盤打楽器で あり、木や竹あるいは青銅で作られた板の鍵盤を叩いて音を出す楽器だ。 ブタウィ華人社会がガムラン楽団のような楽団を作って中華風芸能を演じるようになった のがgambang kromong楽団の発端だそうで、タングランの華人農園で始まった。最初はガ ンバン楽団とクロモン楽団が異なる編成で行われていたが、それが統合されてガンバンク ロモンになったという話だ。 ガンバンクロモン楽団は打楽器の他に常に笛と弦楽器が使われたため、ガムランとは音楽 の雰囲気が異なっている。そこで使われる弦楽器にkong-a-hian, teh-hian, su-kongがあ り、それらは張られた二弦をバイオリンのような弓でこすって奏でる。三つあるのは音域 が違っているだけだ。テヒヤン(提弦)はteehian, teh-hian, tehyanなどと綴られ、現 代インドネシア語ではtehyanが標準綴りになっている。 サムヒアン三弦は弦が三本張られていて、ギターのようにつま弾かれる。この楽器は低音 域を受け持つので、西洋オーケストラのバスの役割を担うという説明になっているものの、 コントラバスほど大型ではないので、音域はそんな低さまでカバーできなかっただろう。 ほんの遊びのつもりでビンタンマスに連れて来られた娘や若妻はたいてい、ニ三カ月そこ に逗留した。要するに、それがタンバッシアに飽きが来る期間だったのだ。タンバッシア はやってきた女たちに高価な衣服を与え、現金や宝石類をプレゼントして女の悦ぶ顔を見 るのを楽しんだ。しかしタンバッシアに飽きられたら、大金持ちの愛人暮らしはそれまで だ。ビンタンマスの使用人にかしずかれ、高価な衣装や装身具を身に着けて暮らした桃源 郷を後にして、かの女たちは現実に引き戻される。だが、そのニ三カ月間にタンバッシア がくれたすべての品と手切れ金は女の物になるのである。 二カ月逗留して飽きられたある娘は、装身具宝石類の他に1万2千フルデンの現金を持ち 帰った。そのような実例が積み重ねられると、噂は隠しようもなく世間に広まる。美女で あれば、ピウンとスロというスカウトがやってきて、大金持ちになれる道に連れて行って くれる。仕事は数カ月間タンバッシアの愛人になるということだけ。そんな時代にバタヴ ィアに生まれたかったと思った女性読者はいらっしゃるだろうか? だが当時のバタヴィアにあった社会の性規範は硬いものだった。アンチョルのビンタンマ スから戻って来た娘が娼婦扱いされるのは、火を見るよりも明らかだ。そして親や家族ま でもが世間からの蔑視に耐えなければならない。 もしも若妻だったなら、帰って来る妻に夫が門を閉ざす恐れは十分高い。夫と築いてきた 家庭は崩壊し、かの女は実家に戻るしかなくなる。社会が従来の規範に従って合理的に運 営されることを望むひとびとにとって、タンバッシアはその破壊者と目されたのも当然だ ろう。社会はタンバッシアに極悪人の烙印を捺した。 このビンタンマスにほとんど住み着いてしまった娘がいた。名をボタンと言うその娘は奴 隷の境遇にあったプリブミ娘だったが、愛らしい目鼻立ちと黄白色の肌を一見してだれも が華人娘と勘違いした。入れ代わり立ち代わり連れて来られる若い娘とタンバッシアが遊 ぶとき、ボタンも一緒にそこに混じって遊ぶのが普通だったようだ。 ボタンは舞台で芸を見せる役者だった。そのころバタヴィアのプチナンには四つの演芸団 があって、おりおり一座の演芸が催されていた。演芸団一座はトップが華人マヨールのも の、次いでコー・カットア、さらにタン・コアン、そしてブセ夫人というランキングにな っていて、マヨールの一座は役者の層が厚く、見物人もたくさん来た。[ 続く ]