「黄家の人々(29)」(2022年07月06日)

インドネシア語でヤカン(薬缶)のことをtekoと呼ぶ。わたしはその語源が福建語の茶缶で
はないかと疑っている。te-koanをプリブミはteko-anと思ったのではないかという疑いだ。

これにはもうひとつのヒントがあって、地名のパテコアンをPetekoanと書くインドネシア
人が少なくないのだ。ムラユ語接頭辞のpe-をスンダ人はpa-と書き、またパと発音する傾
向を持っているのは事実であり、パテコアンをスンダ式発音と考えたインドネシア人が正
式ムラユ語としてそれをPetekoanと見なし、pe-teko-anと分解した可能性をわたしは憶測
している。

ヤカンを意味するテコは茶壺の福建語発音に由来しているという説もあるのだが、茶壺の
福建語標準音はtehoだ。さて、どちらの可能性がより強く感じられるだろうか?


このような勘違いが起こった可能性の感じられるものは他にもあり、たとえば華人の年上
の男性や成人した男性に対して使われるengkohという言葉は、福建語のお兄ちゃんを意味
する成□(□=歌ー欠)がやはり勘違いされたのではないかと思われるのである。福建語で
の成□の発音はsingkoとなっている。そのシが人間を示すムラユ語前置詞のsiと見なされ
たならsi+ngko→si+engkohが起こるのではないだろうか。

このシンコッ→ンコッは更に短縮されて、Kohという形で呼びかけ語として使われる。わ
たしは顔形がチナバ~ガッであるため、昔から街中でコッと呼びかけられるのが常だった。
華人系のひとにまでコッと呼ばれるのだから、恐れ入ってしまう。

若いころにジャカルタ都内でキジャンを走らせていて、赤信号で止まったときに路上物売
りが寄って来るなり運転席のわたしに、「コッ、ロコッ」と呼びかけた。売物を見るとタ
バコだ。それがわたしの記憶ではコッ呼ばわりされた初体験だったのだが、そのとき、わ
たしは最初のコッがrokokを短縮したものだろうと思って疑わなかった。

ところが商店の中で買物していると、タバコ売場でもないのにわたしをコッと呼ぶひとが
いる。数回そんな体験をつんでから、わたしはやっと「Koh!」という呼びかけ語が何を意
味しているのかを理解した。若いころはなかなか慣れなかったが、今では宿命と思って諦
めている。


八個のヤカンという地名の誕生についてのこんな逸話がある。
バタヴィア第4代目のカピタンチナを務めた顏二(Gan Djie)は福建省?州の出身で、まだ
少年のころに兄を頼って東ジャワのグルシッGresikに移住した。兄は農産物を商っていた
のでその手伝いをし、そのうちに雑貨の行商を始めた。プリブミの村々を回って日用品を
販売するのだ。最初は自分で荷を担ぎ、ひとを雇えるようになると使用人に荷を担がせて
一緒に歩いて回った。ある村でバリ娘に出会い、その娘が後にガン・ジー夫人になる。

ガン・ジーはグルシッで成功者になり、余勢をかって1659年にバタヴィアに出て来た。
ちょっと違う部分もあるが、ウイ・セによく似た履歴だ。

バタヴィアの、今のトコティガ通りの西の方にかれは家を持って住んだ。ウイ・セの店は
その反対で、東の端のエリアだった。ガン・ジーはバタヴィアで農産物を扱って身代を大
きくし、また善良で人助けを好む性格だったために社会から好かれ、バタヴィア華人界の
著名人になった。

バタヴィア第3代目のカピタンチナが引退したとき、かれは世間から推されて1653年
にその後継者になった。かれは商売と公務で多忙を極めたが、バリ人のガン・ジー夫人が
夫の片腕となって働いた。ひとびとは夫人をニャイ・ガン・ジーと呼んで尊敬した。

カピタンチナの公務はカピタンの自宅で行われた。カピタンに用のあるひとびとや行商人
が家の表の木陰で休息する。みんな日中の暑さの中で、たいへん喉を渇かせていた。ニャ
イ・ガン・ジーが夫に提案した。この家の表に来る人や表を通る人に無料で茶を飲ませて
あげましょう。

家の門扉の外側にテーブルが置かれ、茶の入ったヤカンが並べられた。たくさん用意して
おけば、頻繁に茶を沸かす必要がない。そのためヤカンは8個置かれた。縁起の良い数字
だ。そのうちに、カピタンチナに用のあるひとたちがその住所を八茶缶パテコアンと呼ぶ
ようになった。そしてそれが地名として定着した。[ 続く ]