「黄家の人々(33)」(2022年07月12日)

その夜、ガムラン楽団の演奏は10時に終わり、楽団員は全員が帰宅した。マサユだけが
プサングラハンに残された。タンバッシアはマサユをベッドに誘い、心行くまでその思い
を遂げることができた。

繊細な手描きバティックと薄絹のズボンの夜着に着替えたタンバッシアはマサユの前に片
膝立ててひざまずき、どうぞこちらへ、と招く。誘われたマサユはその膝に乗る。軟らか
い女の頬に口付けながら、男がささやく。「このバタヴィアから来た放浪者にあなたの愛
が得られるだろうか?」
「ええ、百倍も千倍も確実に。」女はそう言いながら、男の頬に口付けを返す。
「あなたの言葉は本当だろうか、マサユ。」男の指が女の唇に触る。
「アッラーが証人です。わたしの愛は永遠にババのもの。わたしはババのために、この世
の終わりまで身も心も捧げます。どうかこの賎しいジャワ女にババのお情けをいただけま
すように。」

何十人もの美女と遊んだとはいえ、自分に尽くすような言葉をそれまで言われたことのな
いタンバッシアはマサユの言葉に感動を覚え、かれの心をいとおしさが満たした。マサユ
は更に続けて言う。
「神かけて。今まで、わたしの心を惹きつけた男性はひとりもいませんでした。でもはじ
めてババにお目にかかって以来、わたしのまぶたの裏にはババの微笑むお顔が浮かんでく
るのです。今夜こうしてババの愛を受けるわたしは、なんて果報な女なのでしょう。心底
から愛する男に愛される女の幸せは、誰にでも得られるものではありません。」

この女を手放したくないとタンバッシアは切実に思った。
「障害が入らなければ、あなたをバタヴィアに連れて帰りたい。あなたの気持はどうだろ
うか?」

マサユは男の膝から降りるとタンバッシアに向かってひざまずき、「喜んでお供いたしま
す。一家にとっての汚点であるこのわたしがここから去り、しかもバタヴィアで幸福を得
るならば、わたしの家族一同にとってもたいへんにありがたいことになります。どうして
わたしに異存がございましょう。わたしがババのお情けを受けられるかぎり、ババにお仕
えするために世界の果てにでも参ります。」と言った。

タンバッシアの欲情が堰を切った。男と女は互いに相手の愛をむさぼろうとするかのよう
に求め合った。夜はしずかに更けていった。


翌朝早くプサングラハンの表を通って田畑仕事に出る村人たちは、プサングラハンの花畑
を手に手を取って散歩している若い男女の姿を目にした。ひとびとの多くは、それがまる
で一幅の絵になっているように思われて、好感を抱いた。誰がプサングラハンに泊ってい
るのかについてはまだほとんどの村人が知らなかった。

プサングラハンの警備は地元町内が地元警備の一環として行っている。そのため、プサン
グラハンに宿泊客があれば、住民が夜警に動員される。タンバッシアは地元町内と近隣町
内の頭を呼んで「世話になります」と言いながら地元の頭に200フローリン紙幣を、近
隣の頭にはそれぞれ黄金コイン2枚を与えた。俄然、ブタウィのババチナの評判は一気に
高まった。


数日間マサユと蜜の時を過ごしたタンバッシアに、レヘントが馬車を送って来た。気晴ら
しの観光をしてはどうかという勧めだ。馬車にはタンバッシアとマサユがあたかも高貴な
ゲスト夫妻のように座り、プサングラハンでゲストのタンバッシアを世話しているレヘン
トの部下たちと町内頭たちが騎馬で馬車の前後を囲んで、壮麗な行列が見晴らしの良い高
原を進んだ。

地元のウドノや地方下級行政官もブタウィからの客人に敬意を払って行列に加わりたいと
いう申し出を使いに届けさせたものの、プカロガンにいるレヘントはそれを断った。レヘ
ントはマサユに豪華な宝石類を貸して身に着けさせ、高貴なジャワ貴族娘の姿に仕立て上
げていたから、地元民は町内頭を含めてみんなそう思っていた。しかし行政官ともなると
顔が広い。ひょっとしてマサユのタンダッ踊り娘としての顔を知っている者がいるかもし
れない。もしもレヘントの義理の弟が賎しいタンダッ踊り娘と馬車行列を組んだことが世
間に言い触らされたら、レヘントの権威にダメージが起こる。レシデン閣下に批判されで
もしたら、自分の地位すら危うくなりかねないのだ。[ 続く ]