「ヌサンタラの麺(2)」(2022年07月12日)

1972年ごろにジャカルタのメスで女中にソプロミを頼むと、いつも野菜と卵が入った
ものが出て来た。日本にいるときにわたしがしていた、ただ湯をかけてそのまま食べるの
とはまるで違う様式にわたしは感動した。それが、インドネシアの食の豊かさにわたしが
触れた事始めのように思われる。

もちろん、メスのトアンムダに出す食事だから、最大限のケアがなされたにちがいあるま
い。かれら自身が常にそのようにして食べていたかどうかは分からない。しかしあの時代
に日本で日本人が客人にそのようなことをしたかどうかと考えると、ありえないような気
がしたのも確かだ。


バッミに使われている肉という言葉は、どこの国でも、地元食文化でもっとも親しまれ、
あるいは価値が高いとされている動物の肉を指して用いられるようだ。日本で「お肉」と
言えば牛肉を指すのではないだろうか?インドネシアでもdagingという言葉でたいてい
daging sapiが意図されているようにわたしには思える。ところが華人がバッと言うとき、
どうやら豚肉を指しているように思えてならないのである。

わたしがまだインドネシア新参者だったころ、ジャカルタコタのハヤムルッ通りでミーの
看板を出しているワルンにひとりで入ったことがある。わたしが汁麺を注文すると、店の
おやじが「bak atau ayam?」と尋ねた。そのときわたしは、自分がムスリム華人かどうか
を尋ねられたように感じた。


昔は商号に例外なくバッミが付けられ、バッミガジャマダ、バッミジャポス、バッミピナ
ンシア、バッミゴレッ、バッミガンクリンチなどの看板が街中にひしめいていた。197
0年代にわたしの周囲にいた日本人もみんな例外なくバッミと呼んでいた。ところが20
世紀末ごろになって、ジャカルタにいる日本人がバクミと発音しているのを耳にして驚か
された。Bakmi Gajah Madaと書いてあるものをバクミガジャマダと言っているのだ。

インターネットのなかった時代にはみんな耳から聞いた発音を口から発していたというの
に、インターネットができたおかげで、原音を知ってか知らずか原音から外れたカタカナ
書きをだれかが行い、原音を聞いたことがなければまだしも、ジャカルタに住んで原音を
耳にしているはずの人間が日本語の中で原音と異なる発音をするという複雑な行動をして
いることがわたしを驚かせたのである。自分の行動を単純にするほうが楽ではないのだろ
うか?どうして自分の行為を複雑にして当たり前のような顔をしていられるのだろう?そ
れが人間の優秀性を証明するものと考えられているのだろうか?


人類はインターネットの副作用の中に足を踏み入れ始めているのではないかという懸念を
わたしは前々から感じている。インターネットの効用の中に知性と情報の大衆化というも
のがあることを否定するひとはいないはずだ。その大衆化というものの本質が現象的な共
産主義化ではないかという思いがわたしから離れないでいるのだ。

ひとによって異なっていた持てる知性の質と量の高低が大衆レベルに向かって平準化され
る方向に動いていることは確かだと言えても、その大衆レベルというものが従来の高低差
の中央値まで上昇するならまだしも、その四分の一程度しか上昇せず、反対に天の高みに
あったものが中央値近辺まで落ちて来るなら、それを単純に善だと言い切れるだろうか?

情報の大衆化の中にも、意図して流されるホウクスが氾濫し、何を狙っているのかわから
ない欺言や虚偽があふれて情報を求めるひとびとの知識をズタズタにしている現状がある。
インターネットが大衆に対する情報操作や洗脳手段として大きい効用を持っていることは
明白なのであり、大衆化という言葉で目くらましされているわけにもいくまい。[ 続く ]