「ヌサンタラの麺(3)」(2022年07月13日)

財や富裕さの偏在を正すという名目で共産主義が世界にもてはやされていた時代、実情を
知らない日本の青年は共産主義化した国を人の世の清き国と思って憧れた。インターネッ
トがあればそうならなかっただろうか?そんなことは考えられない。真っ向から対立する
宣伝合戦が演じられて、大衆はそれを感情や他人の動向に従って選択するだけだっただろ
うとわたしは推測する。

共産主義諸国が発展途上にあったころ、それが人類の向かうべき善であるとしてもてはや
されていた。たとえ理屈がどれほど善であったとしても、人間という動物がそれを実践す
るようになると歪みにつきまとわれるのを避けることができないようだ。語られていない
ストーリーがどれほどあったのか誰にもわからないものの、その理論上の最高善はイデオ
ロギーの破綻に行き着いてしまった。

人間という動物の実相をわれわれはそこに見ることになるわけだが、知性と情報の大衆化
が人類を同じような落とし穴に向かって歩ませているようなことは本当にないのだろうか。

バッミをバクミと言うように、baksoもバクソと言う日本人が増えた。バクミならまだし
も、バクソというのは食べ物と思えないから、その発音を耳にするたびにその言葉を口か
ら発する日本人の神経のありようにわたしは憐憫を抱くようになった。


バッミの老舗の一つであるバッミガジャマダは1959年に起業した。事業を興したのは
新客華人チャイ・シウ氏で、かれは中国からインドネシアに一家で移住して来た。最初は
家具商売を行っていたが1950年代にインドネシアの政治経済状況が悪化の一途をたど
り、家具商売では食っていけなくなった。一家が食を得るために取りあえず食べ物商売に
転向して、ジャカルタのガジャマダ通り77番地の自宅の表でバッミの作り売りを始めた。
家の表にコンロを置いて、急場作りのワルンをオープンしたのだ。

当然ながら食べ物商売だから、奥さんのルイ・クワイフォンさんと子供たちも総動員され、
毎日午前4時に起きて商品の仕込みを始める。夫が麺を作り、妻が麺を茹で、子供たちは
学校へ行く前に肉野菜を切ったりして手伝う。当時17歳だった長女のジュリアさんはグ
ロドッ市場へ買い物に行き、仕込みを手伝ってから中華会館の華人高校へ通った。学校で
は居眠りばかりしていたそうだ。なにしろ夜は11時にやっと就寝でき、午前4時に起き
るのだから、若い娘にとって睡眠時間不足は明らかだ。

妹のディアンさんはまだ10歳で小学校5年生だった。学校から帰ると店の現金出納係に
なった。客が金を払うときに小さい子供が来るので、驚く客が多かったそうだ。


店は最初小さい規模で始めた。屋号など何もなしだ。メニューはバッミアヤムとバソとパ
ンシッ。とは言ってもテーブルを5卓置いたから、収容人員20人でまあまあの規模だっ
たと言えるだろう。ところがこのワルンは評判が良かった。客がひっきりなしにやって来
て順番を待つようなありさまになったから、2年後には11卓に増やした。100食用意
した商品は毎日売り切れた。日によっては、夕食時間前の夕方に売り切れてしまうことも
起こった。

1968年にガジャマダ通りの路幅格調工事が始まり、道路沿いの建物は11メートル後
方に引っ込まなければならなくなった。結局チャイ・シウ氏は建物を建て直して三階建て
にし、一階と二階をバッミ食堂にした。

その工事の間、一年間ガジャマダ通りの店は閉店し、西ジャカルタ市クジャヤアン通りに
店を借りて営業を続けた。ガジャマダ通りに戻ってから二年後、遠方に住む客から支店を
開くよう求める声が強まり、1971年に南ジャカルタ市ブロッケムのムラワイ通りに初
の支店を開いた。

その後、ガジャマダ通り77番地の店も手狭になったことから、店は同じ通りの92番地
に移って規模を大きくした。更に1986年にはタムリン通りに支店を開き、またポンド
ッキンダモールMal Pondok Indahに出店するなど、発展を続けた。[ 続く ]