「ヌサンタラの麺(4)」(2022年07月14日)

そのころ、多くのレストランがフランチャイズ方式に移行してあちこちに看板を出すよう
になったのに反して、バッミガジャマダは支店制を維持していた。しかし90年代に入っ
てこの老舗もフランチャイズ制を開始し、今では全国のあちらこちらにバッミGMの看板
を見ることができる。

わたしは1972年にガジャマダ通り77番地で世間に好評のバッミアヤムを食べている。
インドネシア新参者のわたしを親しくなったインドネシア人がコタに誘ってくれて、昼食
にバッミを食べ、そのあとコタの中のちまちました住宅地区をかれが案内してくれた。案
内してくれた一帯はどの家にもミシンがあって若いお針子や縫い子の娘たちがいた。かれ
が言うには、娘たちはみんな春をひさぐ商売を副業にしていて、昼でも夜でも金を払って
好きなところに連れ出せるということだった。前世紀のヨーロッパで当たり前のように行
われていたことが時代を超えて今ジャカルタの自分の眼前にあるという思いに、わたしは
圧倒されてしまった。バッミガジャマダにからむそんな記憶がわたしにはある。

昔のバッミガジャマダの店はどこへ行っても、店員が客を大事に扱ってくれるので評判が
良かった。これはフランチャイズ制を始める前の話だ。きっと今でも、支店ではそうだろ
う。わたしの知り合いの日本人のひとりもその点を高く評価していて、こんな店がインド
ネシアにあるのは奇跡的だという言葉を洩らしていた。経営者の従業員教育がインドネシ
アスタンダードをはるかに凌駕していたにちがいあるまい。つまりインドネシアで奇跡的
なサービスをインドネシア人も行えることがそこに証明されていたことをそれは意味して
いる。なにごとも「インドネシア人は・・」「インドネシア人は・・」というラベル思考
が真理に近付けないことをわれわれは悟るべきだろう。


やはりおいしいバッミを食べさせてくれるDepot 3.6.9.はその屋号が示す通り、スラバヤ
が本拠だった。この店も1958年にスラバヤのンボンマラン通りでワルンを開いた。事
業主はクパン出身華人のチャン・パッヤウ氏で、かれは元々スラバヤで学校教師をしてい
た。ところが1950年代の政治経済状況悪化の中で学校が閉鎖されて、かれは職を失っ
た。良くない時代に何かをして食っていかなければならないひとは、食べ物商売に走るの
が常道だったようだ。チャン氏の奥さんは小籠包作りが得意だったので、小籠包ワルンを
開業した。その後チャン氏はパサルでバッミ作り料理人と知り合い、ワルンの内容が変化
した。屋号の3.6.9.は中国の菓子メーカーの商号から取ったそうだ。

商売がうまく進むようになってから、ジャカルタに支店が設けられた。西ジャカルタ市マ
ンガブサールに開いた支点も評判がよく、ジャカルタ在住日本人の間でも麺のおいしい店
のリストの中にその名が上がっていた。


ジャカルタには生麺生産者が作った組合があり、2003年のデータでは70人ほどがそ
の会員になっている。会員になっていない生産者も50人くらいいるそうだ。かれらは製
品を流通販売ネットワークを通して市場に流す一方、製品を調理して消費者に直接販売す
るためにミーの作り売り屋台販売者をも育成している。

グロバッを押して巡回販売したり、定位置にグロバッを据えて客が来るのを待つ、トゥカ
ンミーと呼ばれるひとびとだ。生産者の規模はそれぞれ違っていて、擁しているトゥカン
ミーは少なくとも40人、最大は4百人と言われている。

生産者はグロバッと調理器具や食器を用意し、中にはトゥカンのための宿舎まで用意して
いる生産者もいる。その辺りの様子はトゥカンベチャを雇って自分の資産であるベチャを
運用させるジュラガンとよく似ている。

更にその麺生産者組合はトゥカンミーたちを麺生産者に育てるためのプログラムまで行っ
ている。目標は5年間でトゥカンミーを麺生産者に育て上げるのだそうだ。[ 続く ]