「ヌサンタラの麺(9)」(2022年07月21日)

中央ジャカルタ市プジョンポガンラヤ通りにあるジャワ食堂の老舗のひとつブメンジャヤ
の創業者であるモハンマッ・アンワル・サヌシさんは中部ジャワ州クブメンKebumenから
上京して1950年ごろにバッミジャワ商売を始めた。かれがバッミやナシゴレンに使う
ブンブは赤白バワン・ククイ・トマトなどからなる特別レシピで、作るのに4〜5時間か
かるそうだ。

当時のプジョンポガン一帯は閑散としたカンプンであり、現在のように家屋が建て込んだ
地域になっていなかった。最初、かれはピクラン方式で近辺のカンプンを回った。そのう
ちに、家を建てて食堂にした。ところがその家から火を出してしまったのだ。行政は失火
の罰として、その食堂を再建することを禁止した。その結果、かれは現在の店があるプジ
ョンポガン通りに新しい食堂を開かざるを得なくなった。幸いなことに、そこに移って以
来失火の事故は一度も起こっていないようだ。

現在の店はサヌシさんの娘が経営している。一日に麺やナシゴレンの売上が3百食になる
という。やってくる客のほとんどがジャワ人で、かれらは出稼ぎ先のジャカルタで故郷を
しのぶためにバッミジャワを食べに来るのだそうだ。故郷の味が望郷の想いを癒すのだろ
う。だからこの食堂はモダンな内装にしないでジャワの田舎にあるような様子にしてあり、
また料理も粘土の炉と木炭の燃料で行われている。

故郷の味を求めて、ジャカルタで出世したひとびとから底辺で暮らしを営んでいるひとび
とまで幅広い上京者がこの店を日々訪れていると店主は述べている。


ヨグヤカルタ州バントゥル県で、小麦粉でなくタピオカ粉を素材にした麺が生産されてい
る。mi lethekと呼ばれるこのタピオカ?はある一家が考案して作り始めたものであり、
手間のかかる製法と多数の人力が必要だったため、生産者は数少なかったようだ。今はさ
まざまなブランドが市場に流れているから、生産者が増えたのではあるまいか。

ミーレテッを作っているその元祖工場では、実際にはタピオカ粉とgaplekが原料になって
いる。ガプレッとはキャッサバの塊茎を乾燥させたものの名称で、それがタピオカ粉の元
になる。要するに、タピオカ粉とその前段階のものがミーレテッに使われているというこ
となのだろう。工場主の話によれば、10.5トンのタピオカ粉と20トンのガプレッで
10トンのミーレテッが生産されている。タピオカ粉はバンジャルヌガラで作られるもの
が一番よいそうだ。ガプレッは地元産のものを仕入れている。

レテッというジャワ語は「汚い」「濁った」という意味であり、製品である麺の色が小麦
粉麺のような白色や黄色などはっきりした色になっておらず、灰色がかったり茶色が混じ
っているような薄汚れた感じの色をしていたことからそう命名されたという話だ。


オランダ植民地時代の末期、アラブから移住して来た青年と中国から移住して来た娘がバ
ントゥル県スランダカン郡で知り合った。その当時スランダカンはプチナン(華人居住区)
だったのだ。ふたりは結婚して所帯を持った。

ほどなく日本軍政が始まり、新客華人の国外追放の網がヨグヤカルタまで伸びて来た。ア
ラブ人と結婚した新客華人娘はその網の目から逃れることができたようだ。だが生活は逼
迫していた。アラブ人の妻になった華人娘はバッミを作って食を稼いでいたが、そのうち
に小麦粉が手に入らなくなり、米とトウモロコシの粉を混ぜて麺を作るようになる。地元
住民の誰もがそのようにしていた。しかしかの女は素材の幅を広げようとして、タピオカ
粉を試した。そして一家のだれもが驚いた。「こりゃ美味い。」

バントゥル県では昔からキャッサバの栽培が他地方よりも普及していた。ただ、キャッサ
バをたくさん育てようという意欲はなく、空き地に植えて育つのを放置しているだけだっ
たのが実態だ。かれらの意欲は他のジャワ人と同様、米の栽培に向けられていた。米こそ
が生命の源なのであり、キャッサバはずっと格下のイモなのだから。[ 続く ]