「ヌサンタラの麺(10)」(2022年07月22日)

バントゥル県スランダカン郡トリムルティ村ブンド部落にある工場で、毎日ミーレテッが
生産されている。工場主のヤシル・フェリ・イスマトロドさんはミーレテッ考案者の孫に
当たる。アラブ人と華人の夫婦はかれの祖父母なのだ。

1940年代から稼働を開始したその工場は1982年に稼働を止めた。経済状態が悪化
したために工場を回転させるための資金が足りなくなったのである。その工場で働いてき
た大勢の人間が転職を余儀なくされた。だが既に若くない元従業員たちの働ける場は狭く、
しかも継続性がない。たいていが、近くの川の石や砂利を掘る仕事をしたそうだ。

昔自分の家で働いていた年寄りたちが生活に難渋している姿を目の当たりにして、ヤシル
さんは一念発起して2002年に工場を再開させた。工場が稼働を止めたときにかれはま
だ7歳だったとはいえ、家業がタピオカ麺作りだったことをかれは肌で知っていた。成人
したかれは、あるときひとりの医師と知り合い、タピオカの栄養分がたいへん豊富である
ことを聞かされた。そのころからかれは既に工場再開を考えていたようだ。

栄養豊富なタピオカ麺は地元の素材を使って作ることができる。工場を再開すれば、元従
業員たちに職場を用意してやることができ、それ以外にもジャワ島の地元素材であるタピ
オカの消費が増加して地元経済に役立つだろう。おまけに、それによって全量が輸入され
ている小麦粉の消費増を少しでも軽減させることができれば国家経済への貢献にもなる。
ヤシルさんはこの一石三鳥の壮挙に熱意を燃やした。


工場と呼ぶよりは作業場という雰囲気の大きな建物では昔ながらの道具と装置を使ってタ
ピオカ麺が作られている。ヤシルさんがその工程を機械化しないのは、働いているおよそ
40人の作業者の雇用を優先しているからだ。モダン化すれば人間の作業が減る。昔から
ここで働いてきた作業者たちは既に一度職を失ったではないか。かれは同じ事態を自分の
意志で繰り返すことに大きい抵抗を感じているにちがいない。

作業場の一画に低い巨大な円筒形の臼が置かれ、その上でシリンダー状の大きな石が一頭
の牛に引かれて臼の中を転がっている。麺のドウをこねているのだ。数人の男たちが長柄
の木製スコップでこね具合を調節する。

こね上がったドウは蒸し炉に入れられ、出されてからまたこねられて含有水分の適正化が
行われる。次にプレス工程を通ってから、最後に細長い麺に成形される。プレス工程は昔
から4.5メートルの巨木を使って行われていた。だが巨木を扱うために何人もの若い男
の力が必要だ。一方、作業者の老齢化のためにこの作業の大変さが年々深刻になって来た。
年寄りにこんな作業をさせるのはかわいそうだと考えた工場主は2007年にプレス機械
を購入して、そこだけ機械化を行った。

包装される前に行われる最終行程は乾燥で、一度オーブンで乾燥させ、そのあと天日乾燥
させる。この天日乾燥が曲者なのだ。言うまでもなく天候の影響を強く受けるから、乾季
と雨季で生産量が大きく違ってくるのである。しかし工場主は創業以来の伝統的生産方式
を頑なに続けている。


ひと月の生産量は10トンに達する。かれはSBY大統領の時代に毎月50キロのミーレ
テッを農業省に送った。祖国の素材で作られた麺をぜひ知ってもらいたい。政府中枢のひ
とびとにぜひ祖国の味を味わってもらいたい。それがひとりの国民としてのかれの願いだ
った。SBY大統領はミーレテッを美味しいと評価してそのファンになった。

ひと月10トンの生産量は需要を満たしきれない。注文量が生産量を超えているのだ。機
械化すればその差を縮めるのは容易だろう。だがかれの事業の目的は少し異なっている。

同じように、需給関係が商品価格を決める経済原則もかれのものではない。この経済原則
はインドネシアでさまざまな商品の価格変動を引き起こしてきたし、歴代の政府もこの現
象の対策をやっきになって講じてきた。しかしかれは誰でも買って食べられる価格帯を維
持し続けているのだ。[ 続く ]