「ヌサンタラの麺(13)」(2022年07月27日)

その~ゴーヒアンがインドネシアで五香を使った食べ物の名称になった。肉とエビのミン
チに五香粉とニンニク・赤バワン・ゴマ油・ショウガ搾り汁・塩砂糖などを混ぜ、春巻き
のように細長くして豆腐皮で包んで揚げたものがインドネシアで~ゴーヒアンと呼ばれて
いる食べ物なのである。肉の部分を華人は豚肉にしていたが、プリブミはそれを鶏肉に変
えた。ところがアナンバスでは、更にそこがスマ魚肉になったということらしい。魚肉は
ブンブと一緒にアレンヤシから作ったサゴと合わせて練られ、豆腐皮に包まれて揚げられ
る。

ただしどの食品であっても、スマ魚肉の具はいずれも辣い。どうやら海で生きる民は格別
の辣味を好むように思われる。スラウェシ島のマンダル人もそんな傾向を持っていた。小
舟の上で数日間暮らす漁師たちにとって、血行を良くする食べ物は必需品であるにちがい
ないだろう。


アナンバス群島のような南シナ海のど真ん中に位置する群島にミーや~ゴーヒアンのよう
な中華由来の料理が郷土料理として鎮座していることに疑問を感じた方はいらっしゃらな
いだろうか?

この絶海の真ん中に浮かぶ島々は遠い昔から帆船航海が生んだ航路の中継地になっていた。
中国やフィリピンの船がマラッカやジャワに向かうとき、あるいはインドやペルシャの船
がセレベス海を抜けてマルクのスパイス諸島に向かうとき、アナンバスはその寄港地にな
った。VOCは18世紀に灯台をそこに設けている。

商船の寄港はその港の経済を活発化させる。必然的に華人もそこに吸い寄せられて来た。
1896年に書かれた文献によれば、その島々の住民はマジョリティがムラユ人であり、
華人もかなりいると述べられている。華人は商業や飲食店を営業する者が主で、ムラユ人
は漁業とヤシの実採取が主な生業だった。

別の文献によれば、19世紀に大ナトゥナ島にオランラウッorang laut・ムラユ人・華人
が1千人住み、漁業とヤシの実をなりわいにしていた。アナンバス群島は4千人、他の無
数にある島々は1千4百人の住民人口だった。

経済活動は海での漁と船作り、ココナツヤシの実から作るコプラ、アレンヤシの幹から作
るサゴ、そして少量の木材を建築資材としてシンガポールに売るようなことも行われてい
たようだ。貿易という場面ではほぼすべてにおいて華人が前面に立って取引を一手に握っ
ていたそうだから、ムラユ人たちはあまり恩恵をこうむっていなかったにちがいあるまい。


ミータルンパに似た麺がバンカブリトゥン島にもある。同じムラユ文化圏内なのだから、
当然ということかもしれない。mi kobaと名付けられたこの麺は中部バンカ県コバの町が
発祥と言われている。

アナンバス群島でスマが豊富だったように、バンカブリトゥンではサワラがたくさん獲れ
る。バンカブリトゥンの住民はサワラで同じようにした。特にかれらはサワラの身からブ
イヨンを抽出することを昔から行って来たため、ミーコバの汁にそれが使われていてミー
コバの風味を独特のものにしている。コクがあり、甘味と辣味が溶け合っているのだ。


麺にはコシがあり、柔らかく滑らかだ。麺は生産者が手作りしているものであり、工場の
機械で作られたものではない。小麦粉・塩・ソーダ・卵が練られて麺になる。練って圧縮
されたドウは手動の製麺機で麺条にされるという話だ。

サワラのブイヨンを使った汁は旨味を感じさせてくれる。もちろん、魚臭さもない。この
ブイヨン作りも昔ながらの伝統製法が使われている。まず市場で買ったサワラを洗ってか
ら茹でる。茹で上がった魚から皮と骨を取り除く。残った魚肉を潰して滑らかにし、ブン
ブと一緒に炒める。そこに適量の水を加えて沸騰させると、サワラのブイヨンができる。
ブンブにはクローブ・ナツメグ・シナモン・コリアンダ・メース・アレン砂糖などが使わ
れる。[ 続く ]