「黄家の人々(46)」(2022年07月29日)

夕方になるとインニオは気分がすぐれず、不安がこみあげ、右目がピクピクとひきつった。
これは何の知らせなのかしら、とインニオは下女の老婆に尋ねた。これから何が起こるか
を知っている老婆は、「気のせいですよ。何もありゃしません。」とインニオを安心させ
た。

夜7時ごろインニオは下女と一緒にトコティガの川に向かった。その夜は黒雲が低く垂れ
こめて、雨模様の天気だ。川にやってくる者はほかにひとりもいなかった。この夜の口止
め料に100フローリンをもらった老婆は、「あたしもちょっと小用に。」と言って夜闇
の中に隠れた。インニオはひとりでマンディする。

小舟が一艘静かにインニオに近付いてきていることに、かの女はまったく気付かなかった。
いきなり大柄で腕力の強い男に抱きかかえられたインニオは驚いて声も出せなかった。男
はインニオを舟に移す。舟はすぐに速度を上げてそこから離れて行った。

かなり離れた場所の川岸に近寄って行った舟は、そこで待っていたタンバッシアを乗せて
闇の中に消えた。


インニオがさらわれてから15分くらいが経過し、老婆がそこに戻って来た。そしてイン
ニオを呼び始める。「お嬢ちゃん、インニオ嬢ちゃん、どこにいるの?助けて!お嬢ちゃ
んがいない!」

その叫び声に、付近の家々から住人が出て来て川岸に集まった。知らせはすぐに夫のアサ
ムに伝わり、夫と友人たちはさらわれた妻を探しに駆けつけた。インニオは舟でさらわれ
たと語る目撃者もいて、誘拐手口の様子はすぐに知れ渡った。

妻を奪われた夫は怒りと悔しさに身体を震わせ、犯人を見つけ出して目にもの見せてやる
と騒いでいたが、突然何かに怯えたかのように口を閉じ、友人たちもみんなそろって石垣
の近くに隠れるかのように集まった。怒りに満ちた雄叫びはもう出て来ない。川岸に集ま
っていた野次馬たちも解散した。アサムと友人たちも、まるで何事もなかったかのように
家に帰った。サエラン師の術にかけられたのだろうか。

翌朝、アサムは目覚めて昨夜起こったことを思い出した。怒りと悲しみと悔しさに襲われ
て、やみくもに暴れ回りたい気持ちに駆られた。ところが、アサムの身近にいる人間たち
にタンバッシアの金がもう行き渡っていたのだ。アサムが自暴自棄になってアモックしな
いように、注意して見てやってくれ、と。


一方、連れ去られたインニオはどうなったか?
舟の中で気が遠くなってしまったインニオは、アンチョルのビンタンマスの豪華な寝室の
ひとつで、タンバッシアに抱かれていた。タンバッシアは人形のようになっているインニ
オを膝に載せ、白い身体を愛撫し、口付けしていた。夢で見たシーンが実現したのだ。か
れは興奮に我を忘れた。

インニオの意識がだんだんと戻って来た。見たこともないほど豪華な部屋の中。ここはど
こなのかしら。夢だろうか?しかし愛撫されている身体の感触は現実であることを伝えて
いる。そして自分を抱いている男が未知の人間であるのを知ったとき、インニオは悲鳴を
あげた。

男の手から逃れようとするが、男は放そうとしない。インニオは泣きながら男に懇願する。
わたしを家に帰してください。家で夫がわたしの帰りを待っているんです。どうか今すぐ
家に帰してください。

タンバッシアはインニオに優しい言葉で静かに語る。ここは極楽なのだ。この素晴らしい
御殿で毎日下女にかしずかれ、美しい衣服と宝石で身を飾るのも心のまま。わたしに従う
なら、おまえは何不自由ない一生を送ることができる。おまえの将来は確実に保証される
ことを約束しよう。[ 続く ]