「ヌサンタラの麺(終)」(2022年08月10日)

ハサンとアリフィン・ベイは爆弾の爆発時に学校にいて、寮に爆弾が落ちたことを知り、
ふたりは急いで救助に駆けつけて来たのだった。学校ももちろん、残骸が残っているだけ
だった。

数日して、京都で学んでいた特別留学生仲間が見舞いに訪れた。ところがその翌日、全員
が東京に呼ばれ、その後広島に戻ることは二度となかった。政府はその爆弾について、新
型爆弾だと言うだけで、詳細を国民に知らせることを避けていた。国民の戦意に影響が及
ぶことを怖れたようだ。サガラ青年は東京で身体に異常が起こって入院した。医者は見舞
いに来たひとたちに、サガラが生き延びるチャンスは薄いと語っていたそうだ。


サガラ氏がインドネシアと日本との関係作りの仲介点に位置を占めることはきっと、当然
すぎるほど当然なことだったにちがいない。それがインドネシアに日本の開発食品である
即席麺をもたらすことになったのだ。そのころインドネシアに小麦粉製造会社はひとつも
なかったために、リマサトゥサンキョー社はみずから小麦粉の輸入を行った。

オルバ期にインドネシア最大のコングロマリット「サリムグループ」を築き上げたリム・
シウリオン氏が小麦粉の製粉事業を興したとき、インドネシアの即席?産業の羅針盤がひ
とつの方向を指し示したことは間違いないだろう。

リム氏も1968年にPTサリミアスリジャヤという即席麺製造会社を発足させてSarimie
ブランドの即席麺を生産販売し始めた。しかしいかんせん、先発のスプルミの後塵を拝し
たサリミはなかなかシェアを伸ばすことができなかった。


Indomieというブランド名の即席麺が世に出たのは、1972年のことだった。Indonesia 
Mieを一語にしたものがそのブランド名だ。生産者は1970年4月に設立されたサンマ
ルフードマニュファクチャリング、代表者はジャヤディ・ジャヤ氏だった。

このインドミーも良く売れた。そして一番新顔のインドミーが業界トップシェアのスプル
ミを追い上げて第二位のシェアを持つに至ったため、リム氏はジャヤディ氏と組むことに
した。1984年に両者の合弁でPTインドフードエテルナが設立され、インドミーはイ
ンドフードエテルナで生産されることになったのである。

業界トップのスプルミと対抗するインドミーとサリミは同族関係になってインドフードグ
ループとして動き始めた。そんな形で即席麺の市場競争が続いたあげく、最終的にスプル
ミも同族に加わることになってしまった。1989年にリマサトゥサンキョーもインドフ
ードグループに加わったのである。製粉会社を持つ者の強みがそこに象徴されたできごと
だったようだ。

リム氏がオーナーであるインドフードインターナショナルコーポレーションの子会社とし
て作られたPTランバンインサンマッムル社がスプルミの生産者になった。インドネシア
の即席?産業を三分していたスプルミ・インドミー・サリミはこうしてすべてがリム氏の
手の中に引き寄せられたのだ。現在インドミーはPTインドフードCBPスクセスマッム
ルが生産者になっている。[ 完 ]