「ブディ」(2022年08月11日)

ライター: 語義探究者、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2016年4月30日付けコンパス紙 "Bahasa Tanpa Budi" 

政府高官・社会的有力者・宗教者・著名人たちの姿から明らかなように、言葉遣いが礼節
のお手本のようなひとであっても、それ自体が有徳の人物であることを証明するものでな
いのは、現代のわれわれにとって常識になっている。しかしそれが昔からそうだったわけ
ではない。遠い祖先の時代には、言葉は徳であり、徳は言葉だった。

budi bahasaという言葉がある。振舞いと話し方を示す熟語で、その良し悪しが礼節を意
味しており、人格を形容する言葉になった。ヌサンタラで一般的な伝統的思考法に従って、
それは倫理や行儀作法を意味している。KBBIには次のように、簡潔明瞭にその語義が
記されている。
tingkah laku dan tutur kata, tingkah laku dan kesopanan

budiというのはtingkah lakuのことであり、bahasaはtutur kataのことだ。budi bahasa
という表現を生んだ世界では、良い振舞いの人間は話し方も良く、礼儀をわきまえない人
間は精神が良くないとされていた。ブディの行くところ、言葉も相応の形で手に手を取っ
て歩んだのである。


言葉のくせは隠したり、ごまかしたりできない。地理的にまだ狭い空間だった昔の世界で
喋り方や語法はその人間の出自や成育環境を反映していた。言葉遣いは、山の者か海の者
か、都会人か田舎人か、知識人か不識字人か、金持ちか貧乏人か、高貴な一族か百姓か、
といったその者の出身を決めるためのバロメータだった。

やって来た人間をどのように扱うべきかについて、ひとびとはそのバロメータに従って即
座に処遇の仕方を決めていた。その人間を社会階層のどこに位置付けるのか、足のつま先
を尊敬に満ちた視線で見つめるか、それとも手の指先を疑惑に満ちた視線で見つめるかと
いうことだ。

出身地と家系および所属する社会階層がその者の振舞いの内容を決めるというプライモー
デイアル原理は言葉遣いを通して実用化されていた。その人間が喋り始めたら、その者が
自分の仲間に属すのかそれとも対立する側に属すのか、まっすぐな心なのか舌が二股に裂
けているのかが即座に決まった。言葉が発せられるとき、ブディは丸裸で出現するものに
なっていたのだ。


本当は、そのカップルはまだうぶな時代の三大最高善の中の一部だった。言葉・知識・宗
教が最高の価値を示していた時代だ。それがゆえに、夢見るひとびとにとってそれらは理
想のきわみになったのである。その三つをきわめるためには、物質的な散財とすぐれた知
性が必要とされた。遠くにある文明文化の中心地へ行って、信頼できる高価な指導・教育
・訓練を受けなければならなかった。そうやってきわみに達することのできた者は多くな
かったのだが、その数少ないひとびとがすべてを握ったのである。かれらは学問を身に着
け、宗教を深め、言葉を操った。そのようにしてかれらは人間の理想像としての頂点に達
したのだ。

最高権力を抱く王、高貴な貴族たち、財産あふれる富裕層、武力を司る将軍たちがかれら
を必要とし、そして甘やかした。文字に縁の薄い世界で、かれらだけが天上と下界の秘密
の記された書物を読み、官僚機構を運用し、国家統一のためのコミュニケーションを実践
した。

かれらは善悪を弁別し、世界の繁栄と安逸な来世の鍵を握った。文学と歴史の創造主とし
て、かれらがこの大自然における最高の有徳者と自らを位置付けたのも何ら不思議なこと
でない。言葉の優雅さ、知識の高さ、信仰の深さが向上すればするほど、有徳さがますま
す高まることがかれらの理想にされたのだ。

ところが実態は、善良なる者もいるにはいたが、ブディという名の行儀作法に長けた姿勢
を示しながらも行っていることは呪いの的という人間が上は高官職者から下は庶民にいた
るまで、ありあまるほどいたのである。


モダン化された生活、知識の専門化、地理的世界空間の広がりがそのカップルの蜜月の中
に埋もれていた膿を切開した。言葉と徳が手に手を取って一緒に歩む姿はもう稀なものに
なってしまった。礼節でなく流暢さが言葉に求められるものになり、知識はモラルを踏ま
えることをやめた。ひとりの人間が学士の称号を得る一方で邪悪の大家にもなれる時代が
来た。ウラマが聖人君子であると限らない時代になった。天上の章句を唱える者たちの心
は地獄の腐臭を放っているかもしれない。別離の時が来ているのだろう。言葉・知識・宗
教の大家たちはもうずっと前からそれぞれ個別の道を歩み始めたではないか。

ブディははるか昔にどこかへ移り住んで、今では音沙汰もない。言語学はますます進歩し、
宗教機関はますます強力になり、テクノロジーの世界もますます先端化していく一方で、
まばゆい啓蒙の光を放っていたbuddhiはますます陰りを見せている。言葉の礼節は徳の高
さ、下品な言葉は徳の低さ、という原理はもう通用しない。今では、徳を証明するのに言
葉でなくてもっと実質的なものが求められている。皮肉屋もよく口にするではないか。
「omdoはやめろ」、と。(omdoとはomong doangの短縮語)