「ヌサンタラの竹筒料理(終)」(2022年08月30日) 折しも、エルサン村では慣習祭事の祝宴準備が行われていた。料理係に任じられた男女の 村人たちが集まって、祝宴料理の準備にかかる。ヤシの実が積み上げられ、身を割って水 を集める者、果肉を削って搾る者、ヤシの殻を燃料にするために準備する者たちが働いて いる。 ひとりの男が長い竹を2本かついで、料理係の作業場所に向かってやってきた。料理係リ ーダーのセルフィーさんの顔が明るくなった。かの女はその男に、竹の節をひとつずつ切 り離すよう指示する。開口部と底を持つ筒にするのだ。 ほかのメンバーにも、ニワトリを切って洗う仕事、レイレム・パ~ギ・エルサンなどの葉 を洗ったり切ったりする作業、モチ米を洗ったり粉砕する仕事などが命じられた。この野 天の台所は一躍活況を呈して、人間の動きと話声や笑い声が作り出す賑わいが周辺一帯に 発散されていく。 昔、祝宴の竹筒料理は男だけが作るものだった。女がそこに近寄ると、皮肉や嘲笑の洗礼 を受けたそうだ。だから女たちは竹筒料理の場を敬遠して近寄ろうとしなかった。しかし 今ではその慣習が姿を消し、男女が協力して竹筒料理を作るように変化している。 セルフィーさんの料理班は夕方すべての準備を整えた。たくさんの竹筒にモチ米とココナ ツミルクとショウガのブンブが詰められ、別の何本もの筒にはニワトリ肉とブンブ、ある いはレイレムとパ~ギの葉とブンブを混ぜたものなどが入り、あとは火をおこして焼くば かり。 火の係が準備を終えると、長く並べられたヤシ殻や繊維に火が付けられ、火の周囲に竹筒 が並べて立てかけられた。4〜5時間後には祝宴が開始されるのだ。祝宴会場に張られる テントを建てるにも、森から取ってきた大型の竹が使われていた。 その日作られた料理はナシジャハ、パ~ギ、レイレム、アヤムブルなどだった。ナシジャ ハはショウガ飯、パ~ギはクルワッの葉と塩で作る野菜料理だが、トモホン地方へ行くと チャベラウィッとネギ葉が混ぜられる。 アヤムブルは赤白バワン・ネギ葉・赤ショウガ・ウコン・スレー・パンダン葉・コブミカ ン葉・バジル・レイレム葉・チャベラウィッで作ったブンブを塗って竹に詰める。 地元のひとびとは祝宴に招かれた賓客たちに、大いなる誇りを抱いてそれらの料理を提供 する。それがかれらを常に育んでくれる大自然の恵みだからだ。 昔から、ミナハサのひとびとはみんな山に住んでいた。19世紀に入ってから北スラウェ シの経営に本腰を入れ始めたオランダ植民地政庁は、行政体制構築とプロテスタント布教 の二本立てで領域の文明化に着手した。 1850年ごろミナハサ原住民の状況を調べたフラーフランド牧師は、地元民はみんな昔 から山あいの渓谷や山麓に住んでおり、海岸部に降りてきて住むようになったのは最近の ことだ、と書き残している。人間の暮らしに恵みを与えてくれる森林は山にあったのだ。 そこには肥沃な土地も水もある。ひとびとは安全で豊かな暮らしをそこで享受することが できていたにちがいあるまい。 そんな古い時代、ミナハサ人社会にあった職業は三つだけだった。猟師、畑作農民、漁師 がそれだ。かれらが用意した食料は竹を使う簡便な調理法で食された。どうして竹が選ば れたのか。竹はいたるところに生えていて、手軽に手に入るものだったからだ。 ミナハサ人は、竹を使う調理法はミナハサのものだ、と語る。竹でない調理器具をミナハ サ人はジャワ人から教わった。ジャワからミナハサに流刑されたKiai Majaは1825年 にやってきた。キアイモジョの一族や奉公人たちが料理をしている様子を見たミナハサ人 たちは、竹でない調理器具が使われているのをはじめて目の当たりにして大いに啓蒙され たという話だ。[ 完 ]