「黄家の人々(終)」(2022年09月06日)

処刑執行関係者と数千人の群衆の目は、この希代の大悪党に刻一刻と死が訪れのをじっと
見守り続けた。それはピウンの時よりもっと長かっただろう。検死の医師がタンバッシア
の死を判定し、遺体は地面に降ろされた。棺桶が運ばれてきて、タンバッシアの遺体はそ
こに納められ、埋葬儀式を行うひとびとと一緒に馬車に乗せられた。護送の騎馬警官隊に
囲まれてスンティオンタンジュンの墓地に運ばれることになっていたが、市庁舎前広場の
群衆が減るまで身動きが取れなかったのではないだろうか。

武装蜂起も奪取作戦も、まったく根も葉もない話であったことがこれで明らかになった。
何千人という市民がふたりの人間の死を見るために集まっただけのことだったのだ。こう
してウイ・タンバッシア事件は幕を閉じた。15年経ってから、タンバッシアの一人息子
が父親の期待に沿ったかどうかはよく分からない。

刑事犯罪事件でなくても、経済活動にからんで人間の闘争は果てしなく起こるのが人間社
会の常だから、何かが起こったかもしれない。しかしそんなことが文書になって残る可能
性は稀有だろうから、われわれには知る由もあるまい。


一方、タンバッシアの生活の中に密着した女たちは、世間の男たちから引く手あまたにな
った。なにしろ美しくて、性格も男の気に入るタイプであり、おまけにババシアからたっ
ぷりと財産を持たされたのだから、奪い合いの起こらないはずがないだろう。

タンバッシアの正妻になったシム家の娘は、ボゴールに住むリー・インリーがグナグナに
かけて妾にし、パサルミングに住まわせた。その後、ババリーが中国に錦を飾るために帰
国したときに付いて行き、タンバッシアの一人息子が成人して結婚するときにバタヴィア
に戻って来た。

若い時期のタンバッシアに愛された舞台役者のボタンは、ババシアが処刑されたあとの数
年間、シアの霊がときどきかの女に入って語りかけたそうだ。「オレは帰りたいのだが、
扉がどこにあるのかまだ見つからない。探していても、邪魔する奴がいっぱいいて、思う
にまかせない。」
タンバッシアはそんなことをボタンに語ったという話だ。こうして1915年にスマラン
で出版されたウイ・タンバッシアの物語は完結した。


ウイ・セの子供たちの中で、人物像がまるで分からないのが末っ子のマカウシアだ。ウイ
・セ物語には生まれたばかりの赤ちゃんとして出て来るだけ、タンバッシアの物語にもほ
んのわずかな場面にしか登場しない。

ウイ・ギョックンと名付けられたマカウシアの息子が1894〜1899年にメステルコ
ルネリスのカピタンチナを務め、そのあと1899〜1907年にタングランのカピタン
チナに就任した。かれは1912年にバタヴィアで没した。誕生年は不明だ。

ギョックンは1893年に現在のタングラン県ティガラクサとポンドッコサンビの私有地
を買い取って地主になった。

ギョックンはふたりの息子を残した。キムチャンシアとキムコアンシアという名前だ。か
れらが1919年に商事会社N.V. Handel Bouwen Cultuur Maatschappij Soen Lieを興し
た。農園経営とゴムの通商がその会社の主体事業だった。1956年、インドネシア共和
国の国家方針に従ってその会社はPT Tigaraksaに社名を変えた。オーナーの姓もウイから
ウィジャヤに変わった。だがウイという音はウィとしてそこにしっかり残されている。

1988年にPT Tigaraksa Satriaという株式会社に変身したこの会社は現在も、コンシ
ューマープロダクツや教育関連分野など諸方面に渡る事業を全国ネットワークに乗せて行
っている。[ 完 ]